2013年2月21日木曜日

メルボルン・カップの混雑(2)

 十一月の初めというと、まだ天気が安定しない晩春なのだが、カップ・デイの当日は、素晴らしい快晴に恵まれて、初夏のような暑さになった。だから、黒のスーツに黒のハットという正装姿で迎えに来たボブをみたとき、暑苦しさを感じたものだ。ボブの車で早速フレミントン競馬場へ向かう。

 ところが途中でボブが、予定を変更しようと提案したのだ。車が走り出してからというもの、ボブは、フレミントン競馬場は恐ろしく混むけど、驚くなよとばかり、終始人混みのものすごさを喋りつづけていた。

 彼の提案というのは、競馬場まで車でがかかるので、いわゆるシティ(中心街)まで車で行って、あとは比較的時間があてになる電車で行こうというのだ。そこで、シティのとっかかりの駐車場に車を置き、セントポール教会の鐘を聞きながら、フリンダース・ストリート駅へ。ホームで電車を待つ間、ボブはしきにりぶつぶつつぶやいている。

「一番悪い時間に来てしまったなあ。もうちょっと早くくればよかったのに・・・。」
「今が一番混む時間なの、ボブ。」

 何度目かのボブのぼやきを耳にして、私はつい口をはさんだ。東京の満員電車にもまれ、きたえぬかれている私には、どう考えたって今のホームの様子が混んでいるとは思えないのだ。別に行列ができているわけでもない。身動きができないどころか、前後左右、他人にまったくふれることなく動くこともできる。

 しばらくして、電車が到着した。銀色の車体のドアが左右に開き、乗客が乗り込む。といっても、先を争って入口に殺到する乗客など一人もいやしない。前の人につづいて、整然と車内に足を踏み入れるのである。フリンダース・ストリート駅の始発電車でなかったのに、私たち三人は幸運にも同じブロックの座席に坐ることができた。しだいに座席がつまって、吊り革につかまる人もでてきた。『どのぐらいまで乗り込むのかなあ。ホームにはまだずいぶん人が残っているなあ。』

 まもなくホームの乗客の動きがピタリととまった。一方車内はとみると、立っている乗客の数よりも、あいている吊り革の方が多い。つまり、東京のラッシュアワーの感覚で言えば、車内はガラガラなのだ。それなのに、ああそれなのに、もう乗り込もうとする人はいない。行先が違うからだろうと私は考えた。やがてドアがしまり、電車は動き出した。

「ホームに乗客がずいぶん残っていたけど、あの人たちは、まさかフレミントン競馬場に行くのじゃないだろう。」
「どうして?今日ここにいる人は、みんなフレミントンに行く人ばかりだよ。」
「じゃ、何故この電車に乗ろうとしなかった?」
「何言ってるんだい。こんなに混んでちゃあ、乗る人なんかいないよ。次の電車を待つしかないよ。」
「でも、まだたくさん乗れるんじゃない?」
「そんなことないよ。こんなに混んでいる電車にわざわざ乗るなんて、よほどのもの好きしかいないさ。」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 63-66.

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