2012年10月7日日曜日

十八才まで幸せ(3)


「オーストラリアの男どもは、家事のことをまめにやるが、楽しいからかい?」
「楽しいものも楽しくないものもあるさ。でもさ、とにかくやらなきゃならないんだ。」
「世間の目がこわいからだろう・・・。」
「いや、長い間の習慣だ。それに、女は男に比べて、力が弱いし...。」

 いくつかの優等生的な答がはね返ってきた。私が期待した答は、いつかパブで隣り合わせに座ったおっさんが、「女房が何だ!女なんかみんな死んじまえ。」とわめいていた言葉だったのだ。『酔っ払いどうしの話なんだから、思っている通り正直に言えばいいのに。』

 ややあって、イーンが大声で答えた。

「ケン、君の質問に対する答として、こういったらどうだろうか。つまり『ボクは一八才になるまではきわめてハッピーだった。』という答は・・・。」

 これをきいて、みんながどっと噴き出した。私は、まだこの段階では、何故イーンが"一八才まで幸せ"だったのか、すぐには理解できなかった。

 あとでボブにきいたのだが、イーンが彼の奥さんと知り合ったのは、一八才のときだったそうだ。つまり、彼女のボーイ・フレンドになったとたん、奥さんへの隷属が始まったというわけだ。

『これがオーストラリアン・ハズバンドの本音なのだ。』と言ったら、不当表示のレッテルをはられることになりそうだが、ジェントルマンを装っている私には、これ以上追求することは、とてもできないし、第一非常識に思えた。

 これは私の考えだが、幼いときから"台所に立つ"習慣に慣れていれば、あるいは、家事に精を出す父親を見ていれば、私たち日本人が考えるほど、台所仕事が苦にならないのではあるまいか。

 わが家でパーティを開くとき、きまって女房の手伝いをするのは、女の子ではなく、オーストラリアン・ハズバンドの予備軍ばかりだ。だが、オーストラリアの友人たちから、「日本では、女性が男性に仕えるんだって?」と羨望のまなこできかれたりすると、『ひょっとしたら、私は日本人に生まれたことに感謝しなけりゃいけないのではないか。』などと思ったりもする。

 "ところ変われば何とやら"で、歴史、宗教、文化、国民性・・・もろもろのことが違うだけに、外国人の私が、一見、"女房の尻に敷かれている"ようにみえる"亭主"どものことを、とやかく言ってみてもはじまらないことを知った。日本人の感覚で論じても、まったく意味をなさないのだ。

 初期のオーストラリアでは、常に女性の数が不足していた。流刑囚が送り込まれていた当時は、数百人もの女性が、本国のイギリスから、入植者の妻となるために送られたという話さえある。女性はこの国の歴史では稀少価値から出発したのだ。

 ところで、男であるボブが、建国記念日のパーティで作った料理は、かぼちゃのもの、じゃがいもを油でいためたもの、しいたけのクリーム煮、七面鳥のロースト、レッグ・ハム、そして、カンガルーのしっぽのスープ、その他であったが、それらは多分、女性には作れないすばらしい味の料理だった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 30-33.

十八才まで幸せ(2)

 私の登場でラウンジ・ルームが静かになったのは、ほんの一瞬のことだった。ボブが、みんなに私のことを紹介し終わるか終わらないうちに、

「よう、待ってたぞ。」
『今、あんたのこと、噂していたんだ。」
「ケンにカンパイしよう。」
「日本にカンパイ、オーストラリア・デイおめでとう。」

 けたたましいばかりの歓迎ぶりだ。牧場主で馬の歯医者をしているビル。印刷会社を経営している"もの知り"トム。メルボルン大学経済学部で教鞭をとっているボブの義弟リチャード。市会議員で会社社長のジム。証券会社に勤めるジョージ。この日の仲間で最年長のジャック・・・。

 顔なじみの何人かの、何故かいつもよりは晴れやかな顔がみえる。この日ばかりは、女どもへのサービスに気をつかう必要がないからであろうか・・・。

「よう元気かい?また会えてうれしいよ。」

 そんな挨拶を交わしながらグラスを重ねる。

 だが、同じ人類に属しながら、どうしてこうも違うのであろうか。アルコールには自信のあるはずの私も、ここではさっぱり通用しないのだ。ただただ、巨大で頑丈な胃袋をもつオーストラリア紳士の飲みっぷりに私は感心するばかりだった。

 飲みつづけ喋りつづけてふと時計を見ると、午前二時を過ぎていた。私は五時間、他の人たちは八時間、ぶっ通しで飲みつづけたことになる。

「ジェントルマンたちよ、そろそろお開きにしようではないか。これ以上飲むと、アナ・ムーシイに歩き方を教わらなければならなくなるぞ・・・。」

 最年長のジャックが、みんなに声をかけて犬のように這って歩くかっこうをしてみせた。

「そうしよう。アナ・ムーシイも、一度にこんなに大勢の人間にいちいち歩き方を教えるのは大変だろうし・・・。」

 誰かがジャックに応えた。そして、お喋りの方はそのままに、みんながいっせいに立ち上がって跡片づけを始めた。皿を運ぶ者、残った食べものをまとめる者、スプーンやフォークをまとめて流し台に運んだり、コップを片づけたり・・・。

 あるじのボブが、あがりの紅茶とケーキを用意している間に、ジャックがエプロンをかけて、皿洗いを始めた。「セクシィだぞ、ジャック。」誰かがひやかした。

 ジャックが洗った皿をすぐさま受け取って布巾でふく人、それを食器棚にしまう人。とにかく、手ぎわのよいのにはびっくりした。私なら、間違いなく、皿の二、三枚は割ってしまうだろう。さすがに音にきこえたオーストラリアン・ハズバンドたちだ。皿を洗うにしてもふくにしても、板についており、さまになっているからにくい。しかも、八時間も飲みつづけたあとで。

 アッという間に、流しの周囲に積まれた食器類はすっかり片付いてしまった。

 ジェントルマンたちが跡片づけするのは、この日のような男だけのパーティにかぎらない。ご婦人がたが出席するごく普通のパーティでも、跡片づけは、男の仕事である。

 それにしても、やはり習慣とは恐ろしいものだと思う。かなりアルコールをきこしめしたジェントルマンたちが、コップ一つ割らずにきれいに跡片づけをするとは、私は本当に感心してしまった。

 一段落したところで、お茶を飲みながら、お喋りのつづきが始まった。私はこのとき、以前から一度たずねてみたいと思っていたことを口に出した。

「オーストラリアの男どもは、家事のことをまめにやるが、楽しいからかい?」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 28-30.

十八才まで幸せ(1)

「遅かったじゃないか、ケン。待ちくたびれたぞ。」こう言い終わるか終わらないうちに、イーンはウィスキーの入ったグラスを、さっと私に差し出した。

 イーンとは、ボブの別荘でのバーベキュー・パーティ以来のつき合いだ。彼は私がウィスキーしか口にしなかったのを覚えていたようだ。イーンはもう一方の手に持った自分用のビールを目の前にかかげて、玄関先で早速乾杯だ。

「やあ、よくきてくれたね、ケン。」この家の主で、今日のパーティの立案者であるボブが、エプロンで手をふきながら出て来た。ラウンジ・ルームの方からは、すさまじい話し声がひびきわたってくる。

 パーティが始まって、すでに三時間は経っていた。みんなかなりできあがっているようだ。話し声というよりも「ワァーン」という反響音になってきこえてくる。

「パーティは大盛況のようだね、ボブ。」
「いやあ、すさまじいかぎりだよ。とにかくオーストラリア・ディを祝うにふさわしい雰囲気だ。さあ、早くあちらへ行こう。」

 毎年一月二十六日は、「オーストラリア・ディ」だ。一七八八年のこの日、イギリスのアーサー・フィリップ海軍大佐が、千人あまりの部下と流刑囚、それに何頭かの家畜をつれて現在のシドニー付近に上陸したのを記念する日で、オーストラリアの建国記念日である。

 毎年この夜、ボブの家で"カカア天下"のこの国にはきわめて珍しい"男だけのパーティ"が開かれる。ただし、これは一般的な習慣というよりは、ボブとその仲間だけの行事と考えた方がよさそうだ。

 ちょうど学校は夏休み中なので、家族と一緒に涼しい別荘で休暇を過ごしていたボブは、建国記念日の前夜、一人で、正しくは彼の愛犬アナ・ムーシィ(エストニア語、ギヴ・ミイ・ア・キッスの意味)をお供に、家へ帰った。そして、その瞬間から、ボブの大活躍が始まったのだ。

 あらかじめ買っておいた材料を使って、料理にとりかかる。飲み物の準備、ラウンジ・ルームのセッティング、その他、客を迎えるまでにしなければならないすべてのことをボブはやってのけるのである。何ごとにも、あせったりバタバタすることをきらうオーストラリア人だが、この夜ばかりは例外だ。ボブは盆と正月が一緒に来たような忙しさに追われ、その忙しさは、記念日当日の夕方まで続くのだ。

 女房たちをまじえない男だけのパーティ。人を楽しませることが好きなボブにとって、少々の忙しさなど少しも苦にならないことだろう。逆に忙しい想いをしたあとの楽しみは、特別なのかもしれない。準備や後始末を考えれば、大変な労力になることは間違いないが、性こりもなく、毎年毎年くり返しているところをみると、女房抜きの男だけのパーティは、よほど楽しいのだろう。それは「バッチェラーズ・パーティ」(独身男のパーティ)と名づけられていることからもある程度は推測できる。もちろん出席者には、独身男など一人も含まれてはいない。

 その当日私は、別の約束があったため、公園一つ超えただけのボブの家に着いたときは夜九時を少しまわっていた。幸いなことに、真夏とは思えない肌寒いほどの夜で、この国流に言うと、寒いときの飲み物であるウィスキーがぴったりの気候だった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 26-28.