2012年12月24日月曜日

あわや大事故に(3)

 オーストラリアには、六つの州(他に二つの特別区)がある。それぞれの州にはイギリス女王が任命した提督がおり、独自の議会と法律のもとで、学校の義務教育の年限から、ビールのアルコール分の強さに至るまで、州によって異なる。

 鉄道について言えば、線路の幅は、ビクトリア州の場合は1メートル60センチなのに、ニュー・サウス・ウェールズ州では1メートル43センチの標準ゲージを使うなど、州によってバラバラなのだ。標準ゲージによる大陸横断鉄道が、1970年3月に完成する以前は、シドニーからパースに行くには、五回も列車を乗り換えなければならなかった。

 話が脱線してしまったが、カウボーイ姿の人をみて、鉄道関係者かも知れないと思ったのは、鉄道員や警察官などの制服も、州ごとにバラバラで、しかもそれぞれが極端に違うからである。

『この辺りは、牧場の多い地方だから、カウボーイ姿が制服になっているのだろう。』私は勝手にそう考えていた。それに、このような緊急時に、これほど冷静にふるまえるなんて、鉄道の関係者でなくて誰ができるものか。私は、頭からそう信じていた。

「もう大丈夫ですよ、心配いりません。ケガはありませんでしたか?私たちはラッキーでしたね・・・」

 私の席に来て、鉄道員らしい人はこう話し、さらに巨体をかがめるようにして、

「日本からいらしたんでしょう。」
「そうです。どうしてお判りですか?」
「いや、かねがね欲しいと思っている日本製のムーヴィ・レコーダーをお持ちじゃないですか。」

 これには私もいささか面喰らってしまった。この異常時の中で、私の横にあるカメラとテープレコーダーの非常に小さな商標を確認する余裕が、この人にはあったのだ。

「こんな経験、初めてでしょう?」
「もちろん、そうですよ。」
「驚いたでしょう。」
「ええ、そりゃ・・・。日本には、船のようにローリングするディーゼル・カーは、残念ながらありません。もっとも、日本のディーゼル・カーには、いつもたくさんのお客が乗っていますので、重過ぎて車輪がレールからうくなんてことなどないんでしょうがねぇ。」

 私は精一杯のジョークに、こりゃおもしろいと言わんばかりに、大きなジェスチャーで周囲の人を見まわしながら、高笑いをする。

「どうぞ、いい旅を!」
「ありがとう。」
 
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 48-50.

2012年11月25日日曜日

あわや大事故に(2)

 ほぼ満員の電車。再び窓を見る。

「まだかなりスピードが出ているぞ。」

 ひじかけに右腕をまきつけ、両手をしっかり組み合わせる。たちまち手のひらにじっとり汗がにじむ。

「○○線で脱線事故・・・」

 不思議なことに、たて文字の活字が、頭の中に組み立てられた。横倒しになった列車、その傍でうごめく乗客、空転する車輪、人々の叫び、救急車のサイレン・・・。そんな光景が・・・。

 しかし、現実の列車は一向に倒れようとしない。相変わらず「ダダダダ、ドドドーン!」だ。そして、突然、「ギギギギギィ!」乗客の何人かが椅子から派手に転げ落ちた。

 凍った雪道を走っていて急ブレーキをかけた感じ・・・。たよりなく、スーッと動いている・・・。金属をこすり合わせるような音が何秒かつづいて、列車はやっと停まった。通路に放り出された乗客が、ゆっくり立ち上がる。どの顔も真っ青だ。ふるえている人もいる。

 うしろの席の赤ん坊が火がついたように泣き出した。正確には、このときになってやっと私はこの赤ちゃんの泣き声に気づいたのだ。何しろ、目の前で起こる現象を追うのに精一杯で、うしろのできごとに神経を使う余裕など。まったくなかったのである。

「助かったぞ!! よかったなぁ!」誰かが叫んだ。この一言で、車内にやっと、ざわめきが戻った。
『やれやれ、どうやら助かったんだあ。』こう思ったとたん私は、長い間(と言っても実際には短い時間だったのだが)緊張していたせいか、全身の力が抜け去ってしまい、大きなためいきとともに、まぶたをとじた。

 ふと気がつくと、奇妙なことに列車は水平に停まっていた。つまり脱線していなかったのだ。駅に停まるたびに気になったのは、敷石らしいものものもなく、ひび割れたような枕木の上にたあ並べ置かれただけにみえる頼りない感じのレールだった。『こんなレールなら簡単に脱線していしまいそうだ。』そういう意識が、心のどこかで強く作用していたのだろう。「あなたはケガはなさいませんでしたか。きっと、神さまのおかげですよ。」「そちらの方は?」

 安堵のざわめきの中で、こんな声が聞こえてきた。一人の中年のおじさんが、通路に出て、客席の乗客の一人一人に、声をかけている。

『やけに田舎っぺスタイルをした乗務員だなぁ。この州の鉄道には、こんな制服しかないのかな?』

 背が高く、カウボーイ姿で赤ら顔の、ひげづらである。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 45-48.

2012年11月24日土曜日

あわや大事故に(1)

「ダダダダ、ドドドーン、ダダダダ、ドド!」

 規則正しくきこえていた列車の走行音が、突然、狂い始めた。列車が左右にぶれる。


「ウーッ!」


 息がつまりそうだ。椅子のひきかけに思いっきり横腹をぶつける。左右の車輪がレールから交互に浮かび上がる感じ・・・。


 上下動をくり返す赤茶けた平原。網棚の旅行鞄が、一瞬視界をさえぎり、左の方へドサーッと落ちて来た。頭に当たるのをさけるのがやっとだったが、次の瞬間、体が椅子を離れ、宙に浮いたかと思うと、


「アイタッ!」


 また元の椅子へ。今度は背中をイヤというほどぶつける。


「ウワァーン!」


 前の席にいた五つぐらいの男の子が、椅子から素っ飛んで通路にたたきつけられていた。『悲鳴も万国共通だな』妙なことに感心する。

 1972年11月30日、私はオーストラリア大陸横断鉄道「トランス・オーストラリアン号」に乗ろうと、南オーストラリア州の首都、アデレードから、まずディーゼル準急でポート・ピリイに向かっていた。シドニー、パース間を三泊四日で走る「インディアン・パシフィック号」の切符がとれなかったからだ。


 ポート・ピリイからパースまででも二泊三日の旅になる。オーストラリアの広大さを知るには、オーストラリア大陸を突っ走る横断列車に乗るのが、一番手っ取り早い、その上、世界で最も長いといわれる478キロもの直線コースが含まれている。信じられないことだが、新幹線の岡山・浜松間以上の距離が、まったくカーブがないというのだ。

 シャワーにトイレ付きのゆったりした個室。豪華なラウンジ・カー、”動くホテル”とでも形容したらよいのだろうか、万事ゆったりしていて、居住性は抜群と案内書にある。こういう列車に乗って、のんびり伝説と景観の国オーストラリア大陸の広大な景色を楽しむなんて、何ともぜいたくな旅ではないか。”速いだけが取り柄”の、どこかの国の列車では味わえない優雅で豪華な旅。オーストラリアならではの旅を満喫するために、この旅行を計画したのだが・・・。


 私を乗せた準急が、アデレード駅を出て三時間ほど経ったとき、このできごとが起こったのだ。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 43-45.

2012年10月7日日曜日

十八才まで幸せ(3)


「オーストラリアの男どもは、家事のことをまめにやるが、楽しいからかい?」
「楽しいものも楽しくないものもあるさ。でもさ、とにかくやらなきゃならないんだ。」
「世間の目がこわいからだろう・・・。」
「いや、長い間の習慣だ。それに、女は男に比べて、力が弱いし...。」

 いくつかの優等生的な答がはね返ってきた。私が期待した答は、いつかパブで隣り合わせに座ったおっさんが、「女房が何だ!女なんかみんな死んじまえ。」とわめいていた言葉だったのだ。『酔っ払いどうしの話なんだから、思っている通り正直に言えばいいのに。』

 ややあって、イーンが大声で答えた。

「ケン、君の質問に対する答として、こういったらどうだろうか。つまり『ボクは一八才になるまではきわめてハッピーだった。』という答は・・・。」

 これをきいて、みんながどっと噴き出した。私は、まだこの段階では、何故イーンが"一八才まで幸せ"だったのか、すぐには理解できなかった。

 あとでボブにきいたのだが、イーンが彼の奥さんと知り合ったのは、一八才のときだったそうだ。つまり、彼女のボーイ・フレンドになったとたん、奥さんへの隷属が始まったというわけだ。

『これがオーストラリアン・ハズバンドの本音なのだ。』と言ったら、不当表示のレッテルをはられることになりそうだが、ジェントルマンを装っている私には、これ以上追求することは、とてもできないし、第一非常識に思えた。

 これは私の考えだが、幼いときから"台所に立つ"習慣に慣れていれば、あるいは、家事に精を出す父親を見ていれば、私たち日本人が考えるほど、台所仕事が苦にならないのではあるまいか。

 わが家でパーティを開くとき、きまって女房の手伝いをするのは、女の子ではなく、オーストラリアン・ハズバンドの予備軍ばかりだ。だが、オーストラリアの友人たちから、「日本では、女性が男性に仕えるんだって?」と羨望のまなこできかれたりすると、『ひょっとしたら、私は日本人に生まれたことに感謝しなけりゃいけないのではないか。』などと思ったりもする。

 "ところ変われば何とやら"で、歴史、宗教、文化、国民性・・・もろもろのことが違うだけに、外国人の私が、一見、"女房の尻に敷かれている"ようにみえる"亭主"どものことを、とやかく言ってみてもはじまらないことを知った。日本人の感覚で論じても、まったく意味をなさないのだ。

 初期のオーストラリアでは、常に女性の数が不足していた。流刑囚が送り込まれていた当時は、数百人もの女性が、本国のイギリスから、入植者の妻となるために送られたという話さえある。女性はこの国の歴史では稀少価値から出発したのだ。

 ところで、男であるボブが、建国記念日のパーティで作った料理は、かぼちゃのもの、じゃがいもを油でいためたもの、しいたけのクリーム煮、七面鳥のロースト、レッグ・ハム、そして、カンガルーのしっぽのスープ、その他であったが、それらは多分、女性には作れないすばらしい味の料理だった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 30-33.

十八才まで幸せ(2)

 私の登場でラウンジ・ルームが静かになったのは、ほんの一瞬のことだった。ボブが、みんなに私のことを紹介し終わるか終わらないうちに、

「よう、待ってたぞ。」
『今、あんたのこと、噂していたんだ。」
「ケンにカンパイしよう。」
「日本にカンパイ、オーストラリア・デイおめでとう。」

 けたたましいばかりの歓迎ぶりだ。牧場主で馬の歯医者をしているビル。印刷会社を経営している"もの知り"トム。メルボルン大学経済学部で教鞭をとっているボブの義弟リチャード。市会議員で会社社長のジム。証券会社に勤めるジョージ。この日の仲間で最年長のジャック・・・。

 顔なじみの何人かの、何故かいつもよりは晴れやかな顔がみえる。この日ばかりは、女どもへのサービスに気をつかう必要がないからであろうか・・・。

「よう元気かい?また会えてうれしいよ。」

 そんな挨拶を交わしながらグラスを重ねる。

 だが、同じ人類に属しながら、どうしてこうも違うのであろうか。アルコールには自信のあるはずの私も、ここではさっぱり通用しないのだ。ただただ、巨大で頑丈な胃袋をもつオーストラリア紳士の飲みっぷりに私は感心するばかりだった。

 飲みつづけ喋りつづけてふと時計を見ると、午前二時を過ぎていた。私は五時間、他の人たちは八時間、ぶっ通しで飲みつづけたことになる。

「ジェントルマンたちよ、そろそろお開きにしようではないか。これ以上飲むと、アナ・ムーシイに歩き方を教わらなければならなくなるぞ・・・。」

 最年長のジャックが、みんなに声をかけて犬のように這って歩くかっこうをしてみせた。

「そうしよう。アナ・ムーシイも、一度にこんなに大勢の人間にいちいち歩き方を教えるのは大変だろうし・・・。」

 誰かがジャックに応えた。そして、お喋りの方はそのままに、みんながいっせいに立ち上がって跡片づけを始めた。皿を運ぶ者、残った食べものをまとめる者、スプーンやフォークをまとめて流し台に運んだり、コップを片づけたり・・・。

 あるじのボブが、あがりの紅茶とケーキを用意している間に、ジャックがエプロンをかけて、皿洗いを始めた。「セクシィだぞ、ジャック。」誰かがひやかした。

 ジャックが洗った皿をすぐさま受け取って布巾でふく人、それを食器棚にしまう人。とにかく、手ぎわのよいのにはびっくりした。私なら、間違いなく、皿の二、三枚は割ってしまうだろう。さすがに音にきこえたオーストラリアン・ハズバンドたちだ。皿を洗うにしてもふくにしても、板についており、さまになっているからにくい。しかも、八時間も飲みつづけたあとで。

 アッという間に、流しの周囲に積まれた食器類はすっかり片付いてしまった。

 ジェントルマンたちが跡片づけするのは、この日のような男だけのパーティにかぎらない。ご婦人がたが出席するごく普通のパーティでも、跡片づけは、男の仕事である。

 それにしても、やはり習慣とは恐ろしいものだと思う。かなりアルコールをきこしめしたジェントルマンたちが、コップ一つ割らずにきれいに跡片づけをするとは、私は本当に感心してしまった。

 一段落したところで、お茶を飲みながら、お喋りのつづきが始まった。私はこのとき、以前から一度たずねてみたいと思っていたことを口に出した。

「オーストラリアの男どもは、家事のことをまめにやるが、楽しいからかい?」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 28-30.

十八才まで幸せ(1)

「遅かったじゃないか、ケン。待ちくたびれたぞ。」こう言い終わるか終わらないうちに、イーンはウィスキーの入ったグラスを、さっと私に差し出した。

 イーンとは、ボブの別荘でのバーベキュー・パーティ以来のつき合いだ。彼は私がウィスキーしか口にしなかったのを覚えていたようだ。イーンはもう一方の手に持った自分用のビールを目の前にかかげて、玄関先で早速乾杯だ。

「やあ、よくきてくれたね、ケン。」この家の主で、今日のパーティの立案者であるボブが、エプロンで手をふきながら出て来た。ラウンジ・ルームの方からは、すさまじい話し声がひびきわたってくる。

 パーティが始まって、すでに三時間は経っていた。みんなかなりできあがっているようだ。話し声というよりも「ワァーン」という反響音になってきこえてくる。

「パーティは大盛況のようだね、ボブ。」
「いやあ、すさまじいかぎりだよ。とにかくオーストラリア・ディを祝うにふさわしい雰囲気だ。さあ、早くあちらへ行こう。」

 毎年一月二十六日は、「オーストラリア・ディ」だ。一七八八年のこの日、イギリスのアーサー・フィリップ海軍大佐が、千人あまりの部下と流刑囚、それに何頭かの家畜をつれて現在のシドニー付近に上陸したのを記念する日で、オーストラリアの建国記念日である。

 毎年この夜、ボブの家で"カカア天下"のこの国にはきわめて珍しい"男だけのパーティ"が開かれる。ただし、これは一般的な習慣というよりは、ボブとその仲間だけの行事と考えた方がよさそうだ。

 ちょうど学校は夏休み中なので、家族と一緒に涼しい別荘で休暇を過ごしていたボブは、建国記念日の前夜、一人で、正しくは彼の愛犬アナ・ムーシィ(エストニア語、ギヴ・ミイ・ア・キッスの意味)をお供に、家へ帰った。そして、その瞬間から、ボブの大活躍が始まったのだ。

 あらかじめ買っておいた材料を使って、料理にとりかかる。飲み物の準備、ラウンジ・ルームのセッティング、その他、客を迎えるまでにしなければならないすべてのことをボブはやってのけるのである。何ごとにも、あせったりバタバタすることをきらうオーストラリア人だが、この夜ばかりは例外だ。ボブは盆と正月が一緒に来たような忙しさに追われ、その忙しさは、記念日当日の夕方まで続くのだ。

 女房たちをまじえない男だけのパーティ。人を楽しませることが好きなボブにとって、少々の忙しさなど少しも苦にならないことだろう。逆に忙しい想いをしたあとの楽しみは、特別なのかもしれない。準備や後始末を考えれば、大変な労力になることは間違いないが、性こりもなく、毎年毎年くり返しているところをみると、女房抜きの男だけのパーティは、よほど楽しいのだろう。それは「バッチェラーズ・パーティ」(独身男のパーティ)と名づけられていることからもある程度は推測できる。もちろん出席者には、独身男など一人も含まれてはいない。

 その当日私は、別の約束があったため、公園一つ超えただけのボブの家に着いたときは夜九時を少しまわっていた。幸いなことに、真夏とは思えない肌寒いほどの夜で、この国流に言うと、寒いときの飲み物であるウィスキーがぴったりの気候だった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 26-28.

2012年9月30日日曜日

オーストラリアン・ハズバンド(3)

 私は、あらためて自分のことを考えてみた。オーストラリアの友人たちの影響を受けて、この国の平均的亭主族と同じようにふるまっていたつもりが、それも"清水の舞台"から飛び降りるような一大決心を何度もしたあげくなのに、やはり私は正真正銘の日本人だったのだ。あくまでも、オーストラリアン・ハズバンドを装ったにすぎなかったのだ。『体がきついから、女房にもってもらおう。』こう思いついたときから、私は日本人そのものに戻っていたと言えるだろう。二日酔いの頭の中で、突如チャンネルが"日本回路"につながってしまったのである。

 それにしても、オーストラリアン・ハズバンドとは、何ときびしく、しんどいものだと、つくづく思ったものだ。
「世界一休日の多いこの国では、何かやっていないと、退屈して困ってしまうからだ。」たしかにこういう見方もあろう。ヨットやボートを作ったりするのは、きっと楽しいことに違いない。だが、いくら譲歩したところで、皿洗いが楽しいはずはないと、私の日本人的感覚は叫ぶ・・・。

 だが、私があるパーティの席で聴いた亭主族の告白を紹介すれば、オーストラリアン・ハズバンドたちの本音、少なくともその手前くらいまでは、判っていただけると思う。その前に、『家族よりも仕事が大切だ』と話す人や、『オフィスを出たら仕事の話はしない』というこの国の通説をくつがえす人にはついに出会ったことはなかったことをつけ加えておこう。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 25-26.

オーストラリアン・ハズバンド(2)

 ある日、ボブの別荘で、四家族が集まってバーベキュー・パーティを開くことになった。昼間のパーティ、しかも子供たちを交えてのパーティなので、四家族で十九人がボブの別荘に集まった。

 主人公のボブを中心に男性軍が、半頭分のラムをはじめ、牛肉、ソーセージなどを焼き上げるのに大活躍したことは言うまでもないが、私がここで言いたいのは、私たちがボブの別荘に到着したときのできごとである。

 前の晩、私は風邪気味だったのに、かねてからの約束だからと、この国のもの書きと無理をして飲んだのがたたったらしく、その日は二日酔いがひどかった。雲の上を歩いているというような生易しいものではなく、頭が、ズキズキガンガンしていた。

 わが家から六十キロ足らずのドライブだったが、後半は山道で、ヘアピンカーブが多く、一歩運転を誤ると、谷底へダイヴィングしかねない状態だったので、一時間半もかかった。二日酔いの身にこのドライヴはかなりこたえた。だから、高台にあるいボブの別荘が見えたときは、さすがにほっとして体中の力が抜けてしまった。

 私は、どこへ行くにも、スティール・カメラとムーヴィ・カメラ、それにテープ・レコーダーは、必ず持って行くことにしていたので、この日もクルマに積んできていた。

 他に荷物はといえば、大きなピクニック用のバスケットが一つ。この中には、わが家で用意した日本風の料理が入っている。それと、飲み物を入れたアイス・ボックス。

 本来ならば、この荷物は、男性の私が運搬すべきなのだが、この日ばかりは、ものをもつ気力さえまったく起こらず、仕方なしに、女房が二回に分けて運ぼうということになった。

 すでにボブの別荘には、車が三台停まっており、私たちが一番遅く到着したことになる。いつものように、クラクションを鳴らした。別荘の建物までの間に渓流が流れていて、三〇メートルほどの距離があるので、それが到着の合図になっているのだ。

 いつもなら、みんな揃って渓流にかかる橋まで出迎えてくれるのだが、この日ばかりは違っていた。ボブと長男のヒューゴが、鉄砲玉のように、私たちのところに飛んでくるではないか。

 しかも挨拶もそこそこに、まずボブが女房の手からバスケットとテープ・レコーダーを当然のごとく受けとり、地面においてあった残りの荷物を、ヒューゴがこれまだごく自然にさっととりあげるではないか。

 私はすっかり恥ずかしくなってしまった。やはり、女房に荷物をもたせるべきではなかったと後悔したが、あとの祭。別荘に向かって歩いて行くみんなのあとから、一人悄然とついて行ったものだ。あとでボブに謝った。

「ひどい二日酔いで、ここまでのドライヴですっかり参ってしまったので・・・。申し訳ないボブ・・・。」
「何の話だい?気にすることなんてまったくないじゃないか。」
「ボブ、参考までにきいておきたいんだけど、二日酔いで身体がしんどいときでも、やはり荷物を運ぶのは、亭主の役目かい?」
「うん、そうだよ。もっとも離婚覚悟ならば話は別だがね。着のみ着のままで追い出されるよりは、苦しくても荷物の面倒をみる方がずっといいよ。でも、ぼくも日本人に生まれていたら、もっとハッピーだったろうがね、ケン。」

 いたずらっぽくウィンクしながら、ボブはこう言った。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 23-25.

オーストラリアン・ハズバンド(1)

 私のオーストラリア人の友人のほとんどは、工作室と物置とをかねたガレージを、自分の手で作っていた。古くなった家を安く手に入れて、自分一人でコツコツやりながら、見事な別荘に仕立て上げた友人も居る。庭にバーベキュー用の炉やごみの焼却炉を作ることなど、朝飯前のことだ。なかには器用にも、ビールまで作る友人もいるが、ごちそうになった印象では、残念ながら味の方はもう一つといったところだ。

 バーベキューにかけては、おれの右に出る者はいないとうそぶく友人も何人かいるが、ともかくこの国の亭主族は、信じられないほど、まめに働く。

 あのおばあさんに説教されて、仕方なしに女房の買物につき合い、やむを得ず荷物の始末をするようになった初めの頃は、やたらとみじめに感じたり、妙な悲壮感にとらわれたものだ。

 だが、この国の友人たちとつき合ううちに、そういった感情は、いつの間にか消え失せてしまった。慣れとは本当に恐ろしいものだとつくづく思う。それどころか、私のオーストラリアン・ハズバンド化は、とどまるところを知らず、ついには友人たちを見習って、自分専用のエプロンまで手に入れた。

 "日本男児"にあるまじきふるまいだが、家族ぐるみのパーティの時など、おひらきまぎわに、男の客みんなが、その家の主人を手伝って、あとかたづけや皿洗いをするのに、私一人が、ご婦人方と一緒になって飲みつづける訳にもいかない。最後の最後まで盛大に飲みまくり、楽ししそうに喋りつづけているのは、常に女たちなのだ。

 メルボルンの東六十五キロのところに、ウォバトンという保養地がある。「パラダイス・ヴァレー」とも呼ばれる盆地の町だが、肥沃な土地で、特にいちごの名産地として知られている。

 メルボルン市内を流れるヤラ川の水は褐色だが、上流のこの辺りでは、信じられないほど澄んでいて、川の中を泳ぐ魚の群れが見えるほどだ。両岸には、微妙に濃さの違う緑の木々が、うっそうと繁っている。

 親友ボブの別荘は、この街に入ってすぐのところにある。彼の別荘には「夕霧の丘」という名前がつけられている。夕方になると、必ず霧がかかることから、ボブの長男ヒューゴが名付けたものだ。降雨量が多いせいか、四方をとりかこんでいる山々には、ユーカリの原生林にまじって、松や杉が植林されており、繊細な美しさの日本の山によく似ている。

 親友ボブとその家族について、ふれておこう。彼は相性をボブ、フルネームは、ロバート・アントン・レッシェン。四十三才。弁護士で、オーストラリア・プラスチック協会の副会長だ。私の家の隣りの町(といっても、公園一つをはさんだコールフィールド市だが)に住み、市会議員をつとめている。オースストラリア連邦議会の下院議員(日本の衆議院に当たる)に立候補するよう推されている。大学時代オール・オーストラリア・ラグビー・ティームのフル・バックをつとめる花形プレイヤーであった。奥さんのジョイは、日本のPTAに当たる小学校のマザーズ・クラブの会長をつとめており、娘一人と、息子二人がいる。このうち、二男で末っ子のアントンと私の息子が同級生で、家も近いことから、私たちとの交際が始まった。


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 20-22.

豪に入っては・・・(4)

『チクショウ。これこそ"郷"、いや豪に入っては豪に従え"か。』

 彼女のうしろ姿をうらめしそうに見やりながら、私は自嘲的につぶやいた。人生三十五年、こんなにみじめな気持ちになったのは、初めてだった。"事態の成り行きや如何に?"と見守っていたわが女房どのは、自他ともにものぐさをもって任ずる亭主が、突如ショッピング・カーをひっぱり出すという思いがけない結末に、とてもにわかには信じがたいという顔付で、「やはり、私がひいて行きますよ。何だか変だもの・・・。」などと言い出す始末。

『人間、一寸先は判らないもんだなぁ。まったくひでえ国にきちまったもんだ。』私は口の中でブツブツぼやきながら、ヤケになって堂々と胸を張って、ショッピング・カーをひいた。だが、このときの私のかっこうは、本人の意志とは正反対に、まことにこっけいだったに違いない。道で人とすれ違うたびに、私の背中は丸くなって行った。気恥ずかしさで、穴があったら入りたい心境だった。

 かくて、私が亭主関白の座から一気にすべり落ちることになった"夏の日のできごと"は、口惜しいけれどもおばあさんの判定勝ち、いや鮮やかなKO勝ちに終わったのだ。家に帰ってシャワーを浴びながら、ふとおばあさんの言葉を思い返したとき、とうに流れ尽きてしまったはずの汗が、今度は冷や汗となって吹き出しているのに気づいた。

「あなたのふるまいが、たとえ個人的なものであったにしても、日本人全部が同じことをするものだと、受けとられる恐れのあることを忘れてはならない。」と言ったあのおばあさんの言葉の意味が、このときになってやっと私に判ったのだ。

 日本にいるときは"オイカワ キネオ"であった私も、オーストラリアでは、"ミスター オイカワ"としてよりも"日本人"とみなされることの方が多いことを、彼女は私に教えてくれたのだ。仮に私がオーストラリアで、この国の常識に反することをしたとしたら・・・。オースツラリアに住んでいる大勢の日本人は、「非常識なことをする国民」と評価されてしまうのだ。それが、オイカワというたった一人の人間が、たまたま個人的に行ったことだけなのに・・・。

 二年余りのオーストラリアでの生活を、大過なく送れたのも、街角で出会ったあのおばあさんのアドヴァイスのおかげとだと言えよう。

 子供はともかく、相手が大人なら、自主性を尊重してめったに口出ししないのが鉄則のこの国で、行きずりの私に、あえてアドヴァイスしてくれたおばあさんに、大いに感謝しなければならない。彼女が、この国ではまだまだ少ない日本通であっただけに、私にはよけい嬉しく思えるのだ。

「本当にありがとうございました。」もう一度、この言葉を心の底から感謝をこめて言おうと、その後ずっと、彼女の姿をさがしつづけたが、残念ながら再会することはできなかった。あるいは、今日もメルボルンのどこかの街角で、行きずりの日本人をつかまえて、あの流暢なキングス・イングリッシュで「あなたは男性ですか。」と質問しているかもしれない。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 18-20.

2012年9月21日金曜日

当時聴いていた曲(1)

メルボルンに滞在していたころ、父が運転するクルマのラジオで聴いた曲、いくつか覚えています。
The Carpentesの曲は、よく流れていましたね。

"Close To You"



"We've Only Just Begun"



"Hurting Each Other"



"Super Star"

2012年9月17日月曜日

当時住んでいたフラットの近辺

「豪に入っては・・・」に登場する、当時住んでいたフラットのあたりです。


37 Melby Ave St Kilda East VIC 3183

当時行っていたショッピングセンターの近辺

「豪に入っては・・・」に登場するスーパー・マーケット(Safeway)のあたりです。
ストリートビューを見せたら、母が懐かしがっていました

117 Acland St St Kilda, VIC 3182

豪に入っては・・・(3)

「あなたは、オーストラリアにいる間は、単なる日本人ではないんですよ。あなたは、いわば日本人を代表しているんです。あなたのふるまいから、日本人全体が評価を受けるのですよ。」

 自分をとり戻したかのように、自信に満ちた表情で、彼女はこう言った。思わず私は、踏み出した足をつっぱった。


「すみませんが、もう一度おっしゃっていただけませんか?」

 このとき、私の頭の中は、またもや混乱してしまった。

「あなたが、日本の習慣に従って、奥さんに荷物をもたせても、日本でならば誰も何とも思わないでしょう。でも、ここはオーストラリアなのですよ。私の国では、女性に荷物をもたせて平気でいる男性は、野蛮人とみなされるのです。私は、日本の習慣を知っているから必ずしもそうは思いませんが、もしあなたが奥さんに荷物をもたせて、手ぶらでいる姿をこの国の人が見たら、ほとんどの人は『日本人って、何て野蛮な国民だろう』と思うに違いありません。あなたがこの国で行うことは、たとえそれが、あなた個人のやり方であっても、日本人全体が同じことをするものだ、と受け取られるおそれがあることを忘れてはなりません。それではどうぞ、ここでの生活をエンジョイされますように・・・。ではまたお会いしましょう。」

 おばあさんは、きっぱりとこう言い放つと静かに立ち去ろうとした。
 今度は私がひきとめる番だった。私は混乱状態のまま『ともかく何かを喋らなければ』と必死になった。

「いつか、あなたが日本に来られる機会があるかもしれません。でも、あなたは、日本の習慣に従う必要はありません。あなたのご主人に荷物を全部もたせて、あなたが手ぶらでおられても『オーストラリアの女性は野蛮だ』などと思う日本人は、一人もいないでしょうから・・・。でも『オーストラリアはカカア天下の国だ』と考える人はいるかも知れませんよ。とにかく、いろいろありがとうございました。」

 『何かしゃばれなければならない』という意識から、私の口をついて出た言葉は、何の脈絡もないものとなった。
 正直に言うと、このとき私は、この婦人が話したことをの真意が判っていなかった。だから、およそ感謝の気持ちとはかけ離れた、とっさに頭に思い浮かんだ言葉をただ並べてみたにすぎない。

「ホホホホ・・・どういたしまして。では、さようなら。またお会いしましょうね。」

 彼女は余裕たっぷりだった。

「どうもありがとうございました。さようなら。」

 こう言い終わるか終わらないうちに、私は女房の手から、ショッピング・カーをひったくっていた。おばあさんは、そんな私に満足したのか、にっこり笑って、悠然と立ち去って行った。

『チクショウ。これこそ"郷"、いや豪に入っては豪に従え"か。』


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 16-18.

2012年9月16日日曜日

豪に入っては・・・(2)

「あなたは、どうして、奥さんにショッピング・カーをひかせているんですか?」

 彼女は、何か、納得できないというような、けげんそうな表情で私の顔をのぞきこんだ。
『そう言えば、さっきのスーパー・マーケットでは、おとこどもが、買ったものを、せっせとダンボールの空き箱につめて、駐車場の方に運んでいたわい・・・。話にはきいていたが、こんなときでも、おとこのほうがショッピング・カーをひっぱらなきゃいけないとでも言うのかい。冗談じゃないよ。』

「私は日本人です。日本では、買いものは主婦の仕事です。今日は私が休みですし、私たちはメルボルンへ来たばかりで、女房もまだ買いものに慣れていませんから、たまたまこうしてついてきたのです。」

 私は"日本男児"として、ごく当たり前のことを言った。すると、このバアサン"待ってました"とばかりに、

「あなた方が日本人であることは、はじめから判っていました。私はまた、あなたが今言われたような日本の習慣を、よく知っています。でも、私は、そのうえで、何故あなたが荷物の世話をしようとしないのか、たずねているんです。」

 にくいことに、バアサンの話す英語は、あのききとりにくいオーストラリア英語でもなければ、お国なまりの強い難解な移民英語でもない。この国では、高等教育を受けた人にしか話せない、鮮やかなキングス・イングリッシュ(正しくはクィーンズ・イングリッシュと言うべきか)なのだ。

「私は日本人ですし、この国に永住するわけでもありません。ですから、日本の習慣に従うのは当然だと思います。」
「いえ、私はそうは思いませんわ。あなたは、今オーストラリアにいるんですから、オーストラリアの習慣に従うべきですし、その方があなたにとってもいいのではないでしょうか。」
「そうでしょうか。かりに、私の行為が他人に迷惑を及ぼしたり、オーストラリア社会の秩序を乱したりするものなら、私はあなたのおっしゃる通りにしますが、どう考えても、そんなことはないと信じます。」

 社会の秩序などというふだん使い慣れない言葉がとび出すあたり、私もかなり頭に血がのぼっていたに違いない。
『ばかばかしい。こんな陽当たりがいいところで、汗をかき、こんなおひま方のお相手なんか、していられるものか。』

 辛抱もここまでと、かたわらの女房をうながして、歩き出そうとした。

 バアサンは、そういう私を、何とも悲しそうなまなざしでみつめていた。そして、次の瞬間には、視線を伏せ、また次の瞬間には、焦点の定まらない眼で空を見上げ、まるで、神様お救いくださいと言わんばかりの表情をしてみせた。

 『芝居じみているな。』このとき、私は何故か、不思議なほどの冷静さをとりもどしていた。おばあさんの青い瞳に、絵の具のチューブをそのままなすりつけたような鮮やかさで、豊かな緑が映っているように思えた。

 この辺りは、メルボルンでも有数の住宅街。一財産築いたユダヤ人の大邸宅が建ち並んでいる。ロンドンの風景に出てきそうな煉瓦造りの重厚な家。どこかアメリカを感じさせる平べったく大きな屋根をもった開放的な家。ヨーロッパの古いお城を思わせる石造りの白い家・・・。
 とにかく、同じ造りの家は一軒もない。一軒一軒が、それぞれに顔をもち、"自己主張"している感じだ。しかも、門から、塀、犬小屋、そして郵便受けに至るまで、思い思いの色や形をしている。
 どの家にも共通しているのは、暖炉用の大きな煙突と、広い庭にある、じゅうたんを敷き詰めたような芝生、花壇に咲き乱れる色とりどりの花、家を囲む木々の緑・・・。

 バアサン、いや再びおばあさんと訂正すべきだが、彼女の美しい瞳から、一瞬、緑が消えたように思われた。彼女は、静かな口調で、ゆっくりと言った。

「あなたは、オーストラリアにいる間は、単なる日本人ではないんですよ。あなたは、いわば日本人を代表しているんです。あなたのふるまいから、日本人全体が評価を受けるのですよ。」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 13-16.

豪に入っては・・・(1)

「こんにちは、いい天気ですね」
「ごきげんいかがですか」
 すれちがった初老の婦人と挨拶を交わす。オーストラリアでは、道で人に会えば、見知らぬ者どうしでも、最低、この程度の挨拶はする。いつものことだからと、そのまま通り過ぎようとした。
 ところが、このおばあさんは、ちょっと違っていた。歩く早さを変えない私の背中に、「もしもし、ちょっとおたずねしてもいいですか?」と声をかけたのだ。

 私たち一家は、メルボルンに赴任してから一週間をホテルで過ごし、やっとイースト・セント・キルダのフラット(アパート)に落ち着いたばかりだった。夏の盛りの二月半ばのこと、スモッグにさえぎられることのない夏の太陽が、ジリジリ照りつけている。そんな中を、女房のお供をして、買いものに行った帰りだった。

「何か、お役に立つことでも?」
私は、おばあさんの方を振り返った。すると、このおばあさん、
「あなたは、男性でしょう」
と、とんでもないことを言い出したのだ。『何だって?この国じゃあ、男と女の区別も判らないのか・・・。』

 このおばあさんが、上品で感じがよかったのは、彼女にとっても私にとっても、幸いだったと言うしかない。そうでなければ、私のブロークン・イングリッシュによる罵声が機関銃のように、私の口から飛び出していたに違いない。

 私は、自分の服装をあらためて見なおした。私は、この国の紳士たちの夏の正装である、セミ・スリーブのワイシャツにネクタイ、下は白の半ズボンに、白のハイソックといういでたちだった。
 天下晴れて、"ジェントルマン"の服装をしている自分を確かめてから、私は、ぶぜんとして答えたものだ。
「もちろんですよ。」
 目がくらむようなギラギラの太陽の下、何一つさえぎるものがない街角で『一体このおばさあさん、何がいいたいんだ。』

 メルボルンは湿度が低いので、家の中にいるかぎり、暑さはさほど感じられない。家のスペースが広く、天井が高いため、風通しがよいせいだろう。だが、こういう涼しい家の中から一歩外に出たら、たまらない。足元から、アスファルトの熱気がムーッと伝わり、それに強い日射しも手伝って、思わず目がくらむ。冷房がよく効いたビルから、カンカン照りの道路に出たときの、あの感じだ。
 スーパー・マーケットを中心に、ショッピング・センターをひとまわりして、汗びっしょり・・・、少しでも早く家に帰って、シャワーを浴びたい気持ちなのに・・・。私は心の中でこの婦人を"バアサン"とでも呼びたくなった。

「あなたは、どうして、奥さんにショッピング・カーをひかせているんですか?」


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 11-13.


序にかえて —見た、そしてよくぞ書いてくれた

「いいか、その目でしっかり見てこいよ。」

及川甲子男がオーストラリアに発つ日、私はもう一度彼に念を押した。
「ええ。」
 答えは短かったが、握り返した手に力があった。私は彼の性格の中にある、人とは違う生真面目な一途さに期待していた。その頃、外国という存在は私にとっても未知の世界であったが、多分二年後に聞かせてくれるであろう及川甲子男の報告は、すべての情報は自分自身で確認しないうちは半分の価値しかないと若い時から信じ込んでいる私にとっても、すべて素直に受け入れられそうな気がしていたのである。

 その信頼は小冊子から生まれていた。それは彼が福岡放送局に勤務していた時にまとめた炭鉱事故の記録である。もちろんその頃私は、彼の名前も顔も知らなかったが、いきなり送りつけて来たのである。
 薄っぺらなその本は貧しい体裁であったが、一字一字に災害を根絶して人間の命を救いたいと願う青年の情熱が溢れていた。

 それ以上に私の心をとらえたのは、自分のやった仕事をきちんと説明出来る若者がいたという事実であった。他に生きて行く方法が無いために、会社にしがみつくように暮らしたり、組織に押し潰されている自分を嘲笑しながら、妻子のためにやむを得ず仕事をしている人間が多い中で、文章で自分を表現する力を持っている人物は貴重である。
 後年、私も外国に取材する機会があり、西ドイツのミュンヘンで芸術家たちと話し合ったが、今日のヨーロッパ芸術の衰退は、かつてセザンヌがピカソがルソーがカンジンスキーが、そしてあらゆる分野の芸術家が、自分の仕事を文章で主張したあの激しさを、現代の芸術家が全く心の内側に持っていないことが原因であるとの意見の一致をみたのであった。

 及川甲子男はそれが可能だと私は信じていた。帰国するや私は、とにかくまとめてみろとすすめた。その原稿を抱えて、私は知り合いの出版社を歩き回るつもりであった。
 だが、最初に三十枚ほどの原稿を、こんなのでいいでしょうかと渡された時、私はもう少しで椅子から転げ落ちるところであった。
 文章になっていないのである。少なからずあわてたが、私はこの親友に拒絶反応を起こされるのを覚悟で、真っ赤になるまで訂正し、私の意見を述べた。

 それから数ヶ月、必死に生きるという言葉がふさわしいほどの努力で彼は書き続けた。好きな酒を遠ざけ、睡眠を節約し、彼は彼自身が観察し、おそらく滞在中に未知の世界から愛する国へと自分の内部で昇華して行ったに違いないオーストラリアについて書いた。
 金沢への転勤が決まると、まるでこれまでの人生の総まとめでもするような勢いで、膨大な資料とメモと良き友人たちへの記憶を駆使して、顔色が蒼白になるほどの情熱をこめて書いた。張り合いのある人生を送っていますよという告白も聞いた。

 出発の前日、これがすべてですと渡された大きな原稿用紙の包みを開いて、私は涙が溢れそうになった。それは立派な文章であった。どのくらい苦労しただろうか。私は彼の心をおしはかって、あらためて人間の生きる苦しさを思った。よくぞ書いてくれた。

 私は確信をもって言う。ここに書かれているのは、心豊かな人間が見た真実のオーストラリアであることを。

 1975年5月

鈴木 健二
(NHKアナウンサー)


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 3-5.

はじめに

このBlogでは、2012年6月にこの世を去った父、及川甲子男が、1970年代初頭のメルボルンに滞在したときの体験談「メルボルン・ノート」などをご紹介させていただきます。

及川甲子男は、生前、NHKのアナウンサーとしてキャリアをスタートしました。
アナウンサー時代の仕事の足跡を、Web上でも見つけることができます。
そして、生前に父から聞いた話から、この番組も、父の仕事です。
父は、どちらかというと文化とか芸術とかいった高尚そうなものには興味がなく、自らの仕事に職人的に打ち込んでいるか、周囲の人たちと「浪花節」モードでお酒を片手に会話をしているかの、両極端な人間でしたが、そんな父にしては珍しく、唐招提寺には、番組で訪れて以来、何か感じるものがあったらしく、しばしば「美しいお寺だった」と話しておりました。
父は何度か唐招提寺を訪れていたようで、父の母(私の祖母)が亡くなった少し後に唐招提寺を訪れたことがあり、そのときにお寺にいらした住職さんに「悲しみを抱えていらっしゃいますね」と声をかけられ、その住職さんと長い会話をしていただき、心が安らかになった、という話を父から聞いたことがあります。

そんなアナウンサー、人の書いた文章を読み上げることが仕事だった父が、一方で、自らも文章を書いています。
それが、このBlogのタイトルとなっている「メルボルン・ノート」という本です。
〔及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会〕

1960年代の末のある日、ラジオ・オーストラリアとの交換アナウンサーの制度があることを知り、父はそれに応募し、無事選考され、約二年間、メルボルンに滞在し、ラジオ・オーストラリアの日本語放送のアナウンスをしました。

生前父は、
「それまで仕事ばかりしていて家族を犠牲にしてしまったから、そのお詫びでお前を連れて行ったんだよ」
とか言っていましたが、あの仕事中毒だった父が、そんな理由だけでオーストラリアに行こうと思うはずはないわけで(笑)...おそらくそれまで職人的に仕事に打ち込んできて、ある程度アナウンサーとしての技は見えてきたところで、もう少し視野を広げようと思ったのか、あるいは、あの持ち前の強い好奇心が、当時はまだ日本でほとんど知られていなかった国に対して働いたのか、おそらくその両方だったのでは、と思います。

このBlogでは、しばらく、この父のメルボルンに滞在したときの体験を記した本である「メルボルン・ノート」から、いくつかの箇所を引用して、ご紹介させていただきたいと思っております。

よろしくお願い致します。

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及川 甲子男(おいかわ きねお、1936年6月〜2012年6月) 
千葉県香取市(旧佐原市)生まれ。
野球と真空管ラジオ製作に夢中で、お祭りが大好きな子供だった。高校時代には、当時英語の教師であった故 猿谷要氏(東京女子大名誉教授・アメリカ史)と出会い、生涯交流を続けた。
1959年3月早稲田大学政治経済学部卒、早稲田大学大学院商学研究科中退の後、1959年7月にNHK(日本放送協会)に入局し、以後、鳥取(1959年11月〜62年8月)、福岡(1962年8月〜66年2月)、東京(1966年2月〜71年2月)において、報道、ドキュメンタリー、科学の番組に出演した。
1971年2月からABC Radio Australiaに出向し、日本語放送のアナウンサーとして、当時まだ知る人が少なかったオーストラリアの社会、生活、文化を日本に紹介した。
1973年4月にNHKに戻り、東京(1973年4月〜74年8月)、金沢(1974年8月〜76年8月)、鳥取(1976年8月〜79年8月)、仙台(1979年8月〜84年7月)の各地において番組に出演した。
1984年7月から国際番組部に移り、1996年6月まで海外向けに日本を紹介する番組をプロデュースした。
NHK退職後は、地元のガイドブックの編集、パソコン教室の講師、老人ホームにおける朗読奉仕などに従事した。

*上記内容は、著者自身によってウィキペディアにも投稿しました。