2013年6月9日日曜日

不買運動 (1)

 あるとき、台風にともなう集中豪雨で、メルボルンとその近郊が大洪水になった。メルボルンの目抜き通りは、川となって濁流がうずまき、ABCオーストラリア放送委員会の建物も、といがあまりの豪雨をさばききれずに、天井から雨がもれ始めて、上を下への大騒動。雨水はじゅうたんを濡らしただけではすまず、オフィスからオフィスをかけめぐった。ひどい被害をうけたのは近郊の農家で、畑は一面水びたしとなり、羊や牛は溺死して水にうかび、大変な損害を出した。
 スーパー・マーケットや八百屋の店頭に並ぶ青果物は、軒並み大幅に値上がりした。受給のバランスが崩れて、いつもなら日本い比べると比較にならないくらいほど安い野菜や果物も、さすがに高値となった。一個30セント(80円)のキャベツに三倍の値段がつけられたりした。

 そんなある日、いつものスーパー・マーケットに行くと、数人のおばさんたちが入口をふさぐようにたむろしているのにぶつかった。スーパーの入口のドアには、何やら書かれたビラがはってある。
 この日私の家では、友人を招いてパーティを開く予定があり、限られた時間の中で急いで買いものをすませなければならなかった。私がおばさんたちをかき分けて、スーパーに入ろうとすると、
「ここで買いものするのは、およしなさい。ほだ、あちらに見えるスーパー・マーケットに行った方が良いですよ。」
「えっ?どうしてなんですか?」
「ちょっと、こちらをごらんなさい。ここに書いてあるように、ここでは、三本(一束)○○セントもするにんじんが、向こうでは○○セント。トマトも1ポンドあたり○○セントも安く買えます。キャベツに至っては、一個につき○○セントも違うんですよ。」
 両方のスーパー・マーケットの値段を書き上げた一覧表を、とうとうと説明し始めたのだ。説明をききながら、私はその日の朝刊の記事を思い出していた。
「そういえば、豪雨のあとの生鮮食料品の値動きを調べた記事が載っていたな・・・。たしかアメリカ系スーパーのチェーン店が、どこも、値段が一番高かったと書いてあったな・・・。このスーパーも、問題のチェーン店の一つだっけ・・・。」
 とにかく時間がなかったので、おばさんたちの言うことを素直に信じて、彼女たちが教えてくれた別のスーパー・マーケットで買いものをすませることにした。
 あとできいたのだが、他の店に比べてアメリカ系スーパーのチェーン店では、生鮮食料品がべらぼうに高く、そこで不買運動で対抗しようと、主婦たちはそのチェーン店の一軒一軒で、実力行使をしたとのこと。"おしゃもじ"こそもっていなかったが、大勢の客でいつも混雑する当のスーパー・マーケットには、ほとんど人影をみかけなかったから、不買運動はかなり徹底していたようだ。
 二日後、例の新聞は、「アメリカ系スーパー・マーケットは、どの店も、生鮮食料品の値段を妥当な線にまで下げた」ことを伝えていた。スーパー・マーケットといっても、日本のデパートの小型版と言えるほど、多くの売場をかかえているので、一部の食料品を高くしたために他の売場にまでお客がよりつかなくなったのでは、割に合わないということなのだろう。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 127-130.

2013年5月8日水曜日

当時のラジオ・オーストラリアを聴いていただいていたkoaraさん

「はじめに」で申し上げましたが、父はラジオ・オーストラリアで、1971年から73年まで、ラジオ・オーストラリアの日本語放送でアナウンサーをしておりました。

当時ラジオ・オーストラリアを聴いていらしたkoaraさんのブログを昨年末にネットで発見しました。

「ベリカードとBCLの楽しみ」 http://koaarr.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/1971-75-69dc.html 

連絡させていただいたところ、当時のラジオ・オーストラリアの様子など教えていただきました。

そのkoaraさんが、この連休中に、当時のコレクションを探していただき、父のサインが入っているベリカードの見つけていただき、そのデータを、先ほどメールでいただきました。



RA創設30周年記念」の「ダーウィン送信所のアンテナの写真」のベリカードとのことです。

いわゆる「BCLブーム」は1975年頃以後らしく、それ以前の時代のリスナーはまだ少なかったようです。

koaraさんのように、当時父の放送を聴いていただいていた方と、こうしてやりとりさせていただけるのは、得がたい体験です。

koaraさん、どうもありがとうございます。


2013年3月25日月曜日

人間教育(3)

 そうは言っても、成人してから大人の仲間入りした子供に対して、人間教育をする人はもういない。二十一才の誕生日が過ぎて、大人の仲間入りをしたら、自分で自分の行動に責任をもつことは、言うまでもない。成人してから社会のルールを破るようなことをしたら、責められるのはあくまでもその本人なのだ。

 たとえばボブは、イスラエルの首都テルアビブの空港で、岡本公三ら過激派の日本人青年が、自動小銃を乱射した事件のあと、岡本の父親が、責任を感じて小学校校長の職をやめようとした報道について、理解できないという。

「オカモトはまだ成人していないのか?」
「いや、たしかに彼は二十四才のはずだ。とっくに成人しているよ。」
「じゃあどうして、父親が責任をとらなきゃならないんだい、ケン?」

 ボブは、どうしても判らないと言った表情で、何度も私にきき返したあと、

「ハハーン、日本では、子供が不始末をしたら、その責任は親にもあるというわけだね?」
「そう、その通りだと思うよ。」
「犯人の責任を追及するだけでは十分ではなくて、その犯人を育てた親の責任も追及するんだね?
「そうなんだ。そういう例は珍しくないんだ。」
「ということは、子供が大人になったことを親が認めていないことにはならないのか?成人している我が子を、子供扱いしていることにはならないのかね。」
「うん、それはそうだけど・・・。」
「親は、生きている間は、自分の子供がしでかすことの責任をとらされる恐れがあるわけだ。たとえ子供が成人したあとでもね。そうして子供を正しく育てあげる責任は、その親だけにあって、周囲の人はまったく関係ないという考え方なんだね。ところで、ケン、君は、両親だけの力で子供を一人前の社会人として育てる事ができると思っているのかい?」

 ボブのこの一言が、すべてを表していると思う。親が子供の責任をもつのは、成人するまでのこと、大人の仲間入りをした我が子が極端に言えば、何をしでかそうとも、その行動の責任をとるのは、本人であること。ただし、子供が成人するまでは、機会あるごとに、世の中の大人という大人がみんなで、人間教育をする。こういう”オーストラリア式”を、やはり、私は肯定したいと思うのである。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 122-123.

人間教育(2)

 大陸横断列車でパースに行ったとき、私たちを案内してくれたボブの両親が、こんなことを話していた。

「今年の夏休みには、孫のロビン(ボブの弟の娘)を連れてシドニーまで汽車旅行をするんですよ。今から楽しみで楽しみで・・・。去年はフィオナを連れて行ったので、今年はロビン、来年はヒューゴと一緒に旅行するつもりです。」

 子供の両親だけでなく、おじいさんやおばあさんも、孫たちのために早くから旅行を計画しているのだ。その旅行も、単なる年寄りのつれづれのためでないことは、話をきいていればすぐ判る。一つには、ボブの両親の場合、引退したとはいえ、成功した実業家だったせいで、経済的にゆとりがあるからでもあろう。

 だが、ボブも、その弟のジョンも、父親と同様、単なる実業の成功者ではなく、人間的魅力にあふれている。彼らは年老いた両親のために、パース市内で一番良い病院の一番眺めが良い部屋に、いつでも入院できるよう、予約しているほどやさしい兄弟だ。だから、私からみれば、孫の教育は、それぞれまかせておけば十分だと思えるのだが、やはりあらゆる機会をとらえて、できる限りの人間教育をしておこうというのだろう。

 両親と祖父母とでは、生活体験に違いがあるのだから、子供が学ぶ範囲はぐっと広がるはずだ。判りやすく言えば、子供の両親に限らず、おじいさんやおばあさん、両親の友人、隣りのおばさん、公園の手入れをしている人、パンを配達するおじさん・・・とにかく、国じゅうのみんなが、次の世代を担う子供たちに、行きて行く上で必要なこと、大切なこと、守るべきことを教えていることになる。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 120-121.


人間教育(1)

 例のボブの息子アントンは、いかにも末っ子らしく、甘えん坊でわがままだ。長女のフィオナと長男のヒューゴがとても良い子なだけに、ボブ一家の”問題児”だった。事実、両親や姉、兄たちも、アントンがぐずり出すと、「アントンの病気がまた始まった、仕方ない。」というような態度で、アントン君をみていた。

 ところが、春休みに入る直前に、父親のボブが、「アントンは、まもなく良い子になるだろうよ。」と、小さな声でこっそり私に言ったものだ。そのとき私は、いったいどういうことを言おうとしているのかさっぱりわからなかった。

 学校が休みに入った。早速ボブとジョイは、アントン君だけを連れて、シドニーとキャンベラへ、一週間の自動車旅行に発った。

 やがて、旅を終えたアントンは、また我が家へちょくちょく顔を出すようになった。結論から先に言うと、アントンがすっかり大人びてしまったのだ。時にはおもちゃをめぐって私の子と熱い戦いにまで発展することもあったというのに、旅行以後というもの、まったくそういうことがなくなってしまった。それどころか、私の息子の”挑発”にも全然のらないのだ。どちらかと言えば、私の子はアントンの兄のヒューゴとよくうまが合う。それというのも、アントンはベイビイみたいだという点で両者の見解が一致していたからだ。

 私たち夫婦の間では、アントンが急に良い子になったことがたびたび話題になっていたが、そのうち私の子まで、「アントンがちょっと変だよ。とても良い子になったみたい。」と言い出し始めた。次にボブに会ったときに、早速たずねた。

「ボブ、アントンはずいぶん変わったね。すっかり良い子になったみたい。君が言った通りに・・・。」

 アントンが何故急に良い子になったかを解く鍵が、例の例の一週間の自動車旅行にあったのは言うまでもない。

 ボブに根掘り葉掘りきいてみると、一週間、アントンに自分たちと一緒に行動させながら、社会人としてみにつけなければならないことがらを、そのつど、身をもって教えたというのだ。日本でいえばはしのあげおろしから、ホテルで守らなければならないエチケット、目上の人に対する応対の仕方、はては、音楽会でのマナーに至るまでだ。つまりアントンは、家を出てから再び家に帰るまでの七日間、二人の先生から、起きてから寝るまで、しつけと言おうか、あるいは社会的規範に適合させるための教育と言おうか、道徳教育と言うべきなのだろうか ー あえて人間教育という言葉を使うが ー 人間教育を、実際に即して徹底的に教えられたことになるわけだ。さすがのアントン君も変わるのが当然と言える。念のためにきいてみた。

「フィオナとヒューゴも、アントンと同じように、旅行に連れて行ったの、ボブ。」
「もちろんさ、それぞれ別に連れて、やはり一週間ほど旅行したよ。この春休みにはフィオナは一人で飛行機に乗せてシドニーにいる友人の家に行かせたし、ヒューゴは、ボーイ・スカウトのキャンプに参加させたよ。二人とも、新しい経験をしながら、生きる上で大切なことを学んで来たと思うよ。」

 ボブの話を総合すると、フィオナとヒューゴには、すでに人間教育の基礎をマスターさせているので、今度は、他人の家庭やボーイ・スカウトのキャンプでの集団生活の中で、人間教育のいわば”応用編”を、学ばせようとした訳なのだ。それも、単なる思いつきではなく、一年も二年も前から計画を立てていたのだ。そういえば、この国の鉄道の切符は、一年前から予約できるシステムになっているが、これもやはり、何事も早くから計画を立てて行う国民性に関係があるのかもしれない。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 118-120.

お喋り

 日本では、ゴルフ場は今や混雑の代名詞にもなろうとしている。しかしオーストラリアでは”のんびり”という言葉に置きかえることができる。

 前の組がグリーンから去るのを待ちながら、フェアウェイでお喋りが始まる。間もなく、先行組は全員ホール・アウト。グリーン上には人影がなくなった。

「前があいたぞ。もう打ってもいいんじゃない?」

 話の区切りをみつけて、私はパートナーに声をかけた。彼はショート・アイアンを手にしてはいるものの、いっこうにアドレスに移ろうとする気配がない。

「何を言っているんだ。おれたちの話、まだすんでいないじゃないか・・・。ところでさあ、あのあとが大変だったんだよ、ジョーの奴がよう・・・。」

 とにかく、えんえんと話がつづくのだ。長々とお喋りがつづくのは、打ち込んだボールをさがしてブッシュをかきわけているときでも同じである。ボールをさがしながらペチャクチャ。正しくはお喋りしながらのボールさがしなのだ。うしろから打ってくる人はおろか、「早くしろ。」などと文句を言う人もいない。

 およそ、ゴルフに関係ない話に花を咲かせ、マイ・ペースでカートをひき、「笑いかわせみが鳴き出した。」と言ってはプレーを中断して、その鳴き声に耳を傾け、「へびがいる。」と言えば、その声の主のところへ駆け寄って、みんなで遠巻きにのぞき込む。

 あるオーストラリア人がこんなことを言った。

「月曜日は、ロストボールがたくさん見つかるんだ。」
「どうして?」
「日曜にね、ここのゴルフ場で日本人が、よくコンペをやるからさ。多分、彼等はボールより速い速度で歩いているんじゃないのかね。」
「・・・・・・」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 80-81.

2013年2月21日木曜日

「メルボルン・カップ」

「メルボルン・カップ」の様子を父が撮影したフイルムです。


メルボルン・カップの混雑(3)

 ここで私はあることを思い出していた。オーストラリアでは、何かの拍子に体が触れ合うようなことがあると、必ず「ソウリー」という言葉がはねかえってくることだ。そう言えば、他人の体に、もちろん偶然にでも振れることは、大変失礼に当たるんだと誰かに教えられたことがあった。こういう乗り物に乗るときでも、お互い体が触れ合うのを嫌って、少しでもそれに近い状態になったら、もう満員とみなすのだろうか。この混雑感覚のずれは、フレミントン競馬場に着いて、なおいっそうはっきりした。

 ビルは、私たち以外にもたくさんの人を招待していたので、ビルに代わってボブが競馬場内を案内してくれたのだが、どこへ行っても、”身動きできない”どころか、十分に体を動かすことができるのだ。事実、八ミリカメラで、気に入ったショットを撮ろうと、かなりはげしく移動したが、人混みにさえぎられることなどまずなかった。人間が多いと思ったのは、メイン・レースのゴール・インの様子を撮影したときだけ。ゴールが近づくにつれて、興奮した観客がゴール付近に殺到したからだ。といっても、それもほんの僅かの間のできごとで、ゴール・インしてしまったら、汐がひくように、また元のがら空き競馬場に戻ってしまった。

 私は、日本の競馬場に行ったことがないので、どこが同じでどこが違っているのか判らないが、ただ一つはっきり言えるのは、この国の人たちが言う”人混み”と、私たち日本人が考える”人混み”とは、大きな違いがあるということだ。

「あんな人混みのところなど、まっぴらだ。」と言われても、日本人の私からみると、どうしても人がひしめいている人混みとは感じられないのだ。しょせんは、日本の二十一倍の広さのところに、東京との人口に相当するぐらいの人間しか住んでいない”過疎”の国のこと、例によって、混雑の度合を測るにも、モノサシの目盛りが違うのだろう。

 翌日の新聞は、今年のメルボルン・カップ・ディの入場者が、これまでの最高だったことを伝えていた。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 66-67.

メルボルン・カップの混雑(2)

 十一月の初めというと、まだ天気が安定しない晩春なのだが、カップ・デイの当日は、素晴らしい快晴に恵まれて、初夏のような暑さになった。だから、黒のスーツに黒のハットという正装姿で迎えに来たボブをみたとき、暑苦しさを感じたものだ。ボブの車で早速フレミントン競馬場へ向かう。

 ところが途中でボブが、予定を変更しようと提案したのだ。車が走り出してからというもの、ボブは、フレミントン競馬場は恐ろしく混むけど、驚くなよとばかり、終始人混みのものすごさを喋りつづけていた。

 彼の提案というのは、競馬場まで車でがかかるので、いわゆるシティ(中心街)まで車で行って、あとは比較的時間があてになる電車で行こうというのだ。そこで、シティのとっかかりの駐車場に車を置き、セントポール教会の鐘を聞きながら、フリンダース・ストリート駅へ。ホームで電車を待つ間、ボブはしきにりぶつぶつつぶやいている。

「一番悪い時間に来てしまったなあ。もうちょっと早くくればよかったのに・・・。」
「今が一番混む時間なの、ボブ。」

 何度目かのボブのぼやきを耳にして、私はつい口をはさんだ。東京の満員電車にもまれ、きたえぬかれている私には、どう考えたって今のホームの様子が混んでいるとは思えないのだ。別に行列ができているわけでもない。身動きができないどころか、前後左右、他人にまったくふれることなく動くこともできる。

 しばらくして、電車が到着した。銀色の車体のドアが左右に開き、乗客が乗り込む。といっても、先を争って入口に殺到する乗客など一人もいやしない。前の人につづいて、整然と車内に足を踏み入れるのである。フリンダース・ストリート駅の始発電車でなかったのに、私たち三人は幸運にも同じブロックの座席に坐ることができた。しだいに座席がつまって、吊り革につかまる人もでてきた。『どのぐらいまで乗り込むのかなあ。ホームにはまだずいぶん人が残っているなあ。』

 まもなくホームの乗客の動きがピタリととまった。一方車内はとみると、立っている乗客の数よりも、あいている吊り革の方が多い。つまり、東京のラッシュアワーの感覚で言えば、車内はガラガラなのだ。それなのに、ああそれなのに、もう乗り込もうとする人はいない。行先が違うからだろうと私は考えた。やがてドアがしまり、電車は動き出した。

「ホームに乗客がずいぶん残っていたけど、あの人たちは、まさかフレミントン競馬場に行くのじゃないだろう。」
「どうして?今日ここにいる人は、みんなフレミントンに行く人ばかりだよ。」
「じゃ、何故この電車に乗ろうとしなかった?」
「何言ってるんだい。こんなに混んでちゃあ、乗る人なんかいないよ。次の電車を待つしかないよ。」
「でも、まだたくさん乗れるんじゃない?」
「そんなことないよ。こんなに混んでいる電車にわざわざ乗るなんて、よほどのもの好きしかいないさ。」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 63-66.

メルボルン・カップの混雑(1)

「ケン、それはそれはものすごい人が集まるのよ。どうしてあんなに混むところへ行こうというの・・・。」
「でも、外国からわざわざ来る人もたくさんいるっていうのに、せっかくメルボルンにいながら、メルボルン・カップを見ないで帰るなんて、もったいないじゃない?少しぐらい、混雑しても・・・。」
「あなたは、ご存知ないからそんなのんきなことを言っているけど、少しどころじゃなくて身動きできないほどなのよ。」

 ジョイは、本当にあきれたと言わんばかりに目を丸くして、両手を広げる得意のジェスチャーをしてみせた。

 私は、メルボルン・カップの主催者に当たるヴィクトリア競馬クラブのメンバーのビルから招待状を受けとったその足で、ボブ一家はどうするのか、行くなら一緒にしようと聞きに行ったのだ。

 十一月の第一火曜日は、メルボルンカップ・ディだ。「世界四大競馬」の一つで、1861年に第一回が行われて以来、第二次大戦中もとだえることなくつづけられた伝統のレースであり、この日メルボルン郊外のフレミントン競馬場は、十万人の人手で賑わう。学校や会社なども休み。競馬のために休日が設けられているあたり、さすがオーストラリアだなと思うのだが、競馬のことはまったく判らない私でも、世界的に名の知られているこのレースだけは見逃したくなかった。ましてメンバーのビルからわざわざ招待されているのだ。

 やがて、オフィスから帰ったボブを交え”三者会談”が始まった。その結果、あくまでも人混みはごめんだというジョイは子供たちと家に残って、私の子供も含め、みんなでプールに行くことになった。一方、ボブと私たち夫婦の三人は、ビルの招待に応じてメルボルン・カップの方に行くことにした。

 いくらオーストラリアでも、自家営業でもなければ、夫婦単位で仕事をすることはまずないが、仕事を除けば、あとは何事も家族単位、夫婦単位で行動するのが普通だ。ジョイが、ボブと別行動をとるというのは、正に”異例のできごと”なのだ。メルボルン・カップ・ディの人混みは、よほどのものに違いない。『ジョイは、ものすごく混雑すると言っているが、東京の満員電車のように、レースが終わるまで競馬場に入ったときのままの姿勢でいなければならないのかな?うしろ向きになったら、いったいどうなるんだろう』と、私はどのくらい混雑するものか、レースそのものをみるより、人混みをみる方に興味が湧いてきた。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 61-63.

ウォバトンのボブの別荘

「オーストラリアン・ハズバンド」に登場する、ウォバトンのボブの別荘を訪れたときに父が撮影したフイルムです。


「トランス・オーストラリアン号」

「あわや大事故に」「のんびりした乗客」に登場する「トランス・オーストラリアン号」に乗ったときに父が撮影したフイルムです。



のんびりとした乗客(2)

 再び車内に乗り込もうと、外を歩いていると、プーンとアルコールのにおいが漂ってくる車両にぶつかった。

『そうだ、ビールでも一杯ひっかけよう。』ラウンジ・カートおぼしきところにのりこんだとたん、ビールの匂いがひときわ強烈になった。

 無理もない。ラウンジ・ルームはビールの大洪水・・・。そのビールのプールにこわれたコップがいくつか浮いていた。

『これだけありゃ、一年ぐらいはたっぷりのめるかなぁ・・・。』
『そりゃあ、無理だよ。この暑さじゃあ、蒸発するのが早いから、大急ぎで飲んでも二、三日でビールは干上がっちまうよ。』
『そんなことしたら、胃がいかれてしまうしさ・・・。』
『でも、こんなにスボンや靴下にビールをのませたのは初めてさ・・・。』

 例によって、出来上がった紳士たちが、ビールを含んだズボンの裾を見やりながら、ワイワイガヤガヤ。床はジャブジャブ・・・。

 私は、床に漂うビールの匂いに酔いながら、一生懸命ラウンジ・カーのつんざくような話し声、笑い声から逃れていた。

『どこか違っている。これや、どこか変だぞ。』

 どうして、乗客はこうやってのんきに冗談を言い合っているのだろう。何故怒らないのだろうか。靴だってズボンだって、ビール漬けにされたのだ。コップで手を切ったのか、中には血がにじんだハンカチを手に巻いている人もいる。

 仮に日本でこんなことがあったら、乗務員はたちまち乗客に取り囲まれて、ことと次第によっては、一騒動起こるのは必至だ。

 まして乗務員が、うっかり『わたしは知らないよ。』などと言おうものなら、腕の一本や二本へしおられないまでも、乗客の怒りに火をつける結果になる。ところがここでは、乗客が乗客のご機嫌をとって歩く。ちょっと想像もできない。

 オーストラリアに来て、二年近く経って、少なくともオーストラリア人の「鷹揚さ」や「助け合い」の心については、かなり理解していたつもりだが、こういう異常時にも、いつもと変わらぬ態度をとることができるとは、ただただ驚くばかりであった。

 ビールの無料酔いで、フラフラしながら、自分の席に戻ってさらに二〇分、汽笛一声、大平原の中に笑いを残して、列車は再び走り始めた。

「あのときは、てっきりダメだと思った。こうして元気でいられるのが不思議だ。みんながお祈りしたからだ・・・。」

 終点のパースに着くまで、赤茶けた大平原で起きたあのできごとが何度も人々の話題になった。まかり間違えば、大惨事にまきこまれていたかも知れないような恐ろしい出来事の中で、ふだんと変わらない余裕をもてる人間がいたことは、私にとっては驚きとしかいいようがなかった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 53-54.

2013年1月24日木曜日

のんびりとした乗客(1)

 列車が停まってから、かなり時間が経っていた。私は、日本人の悪いくせか、いつになったら動くのか、たしかめないわけにはいかなくなってしまった。

 席を立って線路に降り、何かわめきながら台車をのぞきこんでいる乗務員らしい男にたずねた。それらしいお揃いの服をきた鉄道員が四人ほどいた。

「どうしたんですか?」
「私は知りません。調べてみないと...。」
「もう、三〇分以上経ってるし、まだ何も判らないんですか。」
「とにかく、私には判りません。」
「じゃ、いつ発車するんですか。」
「その質問にも、私は答えられません。」

 こんな答えが返ってくるときは、いくらねばっても何も聞き出せないことは、経験的に判っていたので、これ以上たずねるのはやめにした。

 とにかく、オーストラリアでは、はっきり判るか、まったく判らないかのどちらかで、あいまいな答え方をしないのだ。どんなに親しい間柄でも、自分の答がいいかげんであったために、先き行き相手に迷惑をかける―特に金銭的な損失を与える場合はなおさらだが―おそれがあるような質問には「自分は多分こうだと思うが、専門家に確認してくれませんか。」と付け加えるのが普通だ。

 私たち日本人ならば、そんなことを言ってつき放したら『冷たい、不親切なヤツだ。』と思われてしまうのを恐れて、少々あいまいな知識でも、つい断定的に教えてしまいがちである。オーストラリアでは、自分の言ったことに対してきびしく責任を追及されるのに、日本では間違いはよくあることだと、見逃してくれることの方が多い。

 一見不親切で、責任のがれとも受けとれる乗務員の答え方のうらには、こういう私たち日本人とは根本的な違いがあるのだ。


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 51-52.

2013年1月3日木曜日

あわや大事故に(4)

 彼は、私のうしろの席へと移って行った。若い母親の腕の中で、赤ちゃんはとっくに泣き止んでいたが、血の気を失った母親は、まだ緊張でふるえが止まらない様子だった。右手に持ったミルクビンには、ふたがない。ショックで素っ飛んだらしく、ミルクが、若い母親のスカートと座席を汚していた。彼は、若い母親から赤ちゃんをそっと抱き上げると、


「男の子?それとも女の子?何ヶ月になるの?良く太っているね。名前は?」
「ピーター・・・。」

 やっと、母親がかぼそい声で答えた。

「そうピータって言うのかい?おじさんはね、ピーターっていう友達に合いに行って来たんだ。さっき、駅で見なかったかい?おじさんのこと見送っていただのがピーターなんだ。ピーターという名前の男はね、みんなハンサムで頭のいいヤツばかりなんだ。坊やも、きっとハンサムで優秀な人間になるぞ。」

 その言葉で、母親の顔にもやっと生気がよみがえってきた。さっきから心配そうにこの母子の様子を見守っていた周囲の人々から、

「私もピーターというんだが、どうです、ハンサムでしょう・・・」とこれはかなり年老いたピーターさん。

 どんな顔がハンサムか日本人の私には判定がむずかしいが、周囲がどっと笑い、ピーターじいさんが照れ笑いをしているところをみると、例外に入るピーターだったようだ。
「私が若い女性だったら、間違いなく、この場で、あなたに結婚を申し込んでいただろうよ、美しいピーターさんよ。」カウボーイ姿が、早速切り返した。

 こうして彼は、私たちの車両内のあちこちに笑いを創造し、まきちらして、その巨体を再び一般の客席に沈めた。それで「あの人は、鉄道関係者ではないだろう。」と教えてくれた隣りの若い男の乗客の言葉が正しかったことを知った。つまりごく当たり前の乗客の一人だったのである。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 50-51.