2013年2月21日木曜日

「メルボルン・カップ」

「メルボルン・カップ」の様子を父が撮影したフイルムです。


メルボルン・カップの混雑(3)

 ここで私はあることを思い出していた。オーストラリアでは、何かの拍子に体が触れ合うようなことがあると、必ず「ソウリー」という言葉がはねかえってくることだ。そう言えば、他人の体に、もちろん偶然にでも振れることは、大変失礼に当たるんだと誰かに教えられたことがあった。こういう乗り物に乗るときでも、お互い体が触れ合うのを嫌って、少しでもそれに近い状態になったら、もう満員とみなすのだろうか。この混雑感覚のずれは、フレミントン競馬場に着いて、なおいっそうはっきりした。

 ビルは、私たち以外にもたくさんの人を招待していたので、ビルに代わってボブが競馬場内を案内してくれたのだが、どこへ行っても、”身動きできない”どころか、十分に体を動かすことができるのだ。事実、八ミリカメラで、気に入ったショットを撮ろうと、かなりはげしく移動したが、人混みにさえぎられることなどまずなかった。人間が多いと思ったのは、メイン・レースのゴール・インの様子を撮影したときだけ。ゴールが近づくにつれて、興奮した観客がゴール付近に殺到したからだ。といっても、それもほんの僅かの間のできごとで、ゴール・インしてしまったら、汐がひくように、また元のがら空き競馬場に戻ってしまった。

 私は、日本の競馬場に行ったことがないので、どこが同じでどこが違っているのか判らないが、ただ一つはっきり言えるのは、この国の人たちが言う”人混み”と、私たち日本人が考える”人混み”とは、大きな違いがあるということだ。

「あんな人混みのところなど、まっぴらだ。」と言われても、日本人の私からみると、どうしても人がひしめいている人混みとは感じられないのだ。しょせんは、日本の二十一倍の広さのところに、東京との人口に相当するぐらいの人間しか住んでいない”過疎”の国のこと、例によって、混雑の度合を測るにも、モノサシの目盛りが違うのだろう。

 翌日の新聞は、今年のメルボルン・カップ・ディの入場者が、これまでの最高だったことを伝えていた。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 66-67.

メルボルン・カップの混雑(2)

 十一月の初めというと、まだ天気が安定しない晩春なのだが、カップ・デイの当日は、素晴らしい快晴に恵まれて、初夏のような暑さになった。だから、黒のスーツに黒のハットという正装姿で迎えに来たボブをみたとき、暑苦しさを感じたものだ。ボブの車で早速フレミントン競馬場へ向かう。

 ところが途中でボブが、予定を変更しようと提案したのだ。車が走り出してからというもの、ボブは、フレミントン競馬場は恐ろしく混むけど、驚くなよとばかり、終始人混みのものすごさを喋りつづけていた。

 彼の提案というのは、競馬場まで車でがかかるので、いわゆるシティ(中心街)まで車で行って、あとは比較的時間があてになる電車で行こうというのだ。そこで、シティのとっかかりの駐車場に車を置き、セントポール教会の鐘を聞きながら、フリンダース・ストリート駅へ。ホームで電車を待つ間、ボブはしきにりぶつぶつつぶやいている。

「一番悪い時間に来てしまったなあ。もうちょっと早くくればよかったのに・・・。」
「今が一番混む時間なの、ボブ。」

 何度目かのボブのぼやきを耳にして、私はつい口をはさんだ。東京の満員電車にもまれ、きたえぬかれている私には、どう考えたって今のホームの様子が混んでいるとは思えないのだ。別に行列ができているわけでもない。身動きができないどころか、前後左右、他人にまったくふれることなく動くこともできる。

 しばらくして、電車が到着した。銀色の車体のドアが左右に開き、乗客が乗り込む。といっても、先を争って入口に殺到する乗客など一人もいやしない。前の人につづいて、整然と車内に足を踏み入れるのである。フリンダース・ストリート駅の始発電車でなかったのに、私たち三人は幸運にも同じブロックの座席に坐ることができた。しだいに座席がつまって、吊り革につかまる人もでてきた。『どのぐらいまで乗り込むのかなあ。ホームにはまだずいぶん人が残っているなあ。』

 まもなくホームの乗客の動きがピタリととまった。一方車内はとみると、立っている乗客の数よりも、あいている吊り革の方が多い。つまり、東京のラッシュアワーの感覚で言えば、車内はガラガラなのだ。それなのに、ああそれなのに、もう乗り込もうとする人はいない。行先が違うからだろうと私は考えた。やがてドアがしまり、電車は動き出した。

「ホームに乗客がずいぶん残っていたけど、あの人たちは、まさかフレミントン競馬場に行くのじゃないだろう。」
「どうして?今日ここにいる人は、みんなフレミントンに行く人ばかりだよ。」
「じゃ、何故この電車に乗ろうとしなかった?」
「何言ってるんだい。こんなに混んでちゃあ、乗る人なんかいないよ。次の電車を待つしかないよ。」
「でも、まだたくさん乗れるんじゃない?」
「そんなことないよ。こんなに混んでいる電車にわざわざ乗るなんて、よほどのもの好きしかいないさ。」

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 63-66.

メルボルン・カップの混雑(1)

「ケン、それはそれはものすごい人が集まるのよ。どうしてあんなに混むところへ行こうというの・・・。」
「でも、外国からわざわざ来る人もたくさんいるっていうのに、せっかくメルボルンにいながら、メルボルン・カップを見ないで帰るなんて、もったいないじゃない?少しぐらい、混雑しても・・・。」
「あなたは、ご存知ないからそんなのんきなことを言っているけど、少しどころじゃなくて身動きできないほどなのよ。」

 ジョイは、本当にあきれたと言わんばかりに目を丸くして、両手を広げる得意のジェスチャーをしてみせた。

 私は、メルボルン・カップの主催者に当たるヴィクトリア競馬クラブのメンバーのビルから招待状を受けとったその足で、ボブ一家はどうするのか、行くなら一緒にしようと聞きに行ったのだ。

 十一月の第一火曜日は、メルボルンカップ・ディだ。「世界四大競馬」の一つで、1861年に第一回が行われて以来、第二次大戦中もとだえることなくつづけられた伝統のレースであり、この日メルボルン郊外のフレミントン競馬場は、十万人の人手で賑わう。学校や会社なども休み。競馬のために休日が設けられているあたり、さすがオーストラリアだなと思うのだが、競馬のことはまったく判らない私でも、世界的に名の知られているこのレースだけは見逃したくなかった。ましてメンバーのビルからわざわざ招待されているのだ。

 やがて、オフィスから帰ったボブを交え”三者会談”が始まった。その結果、あくまでも人混みはごめんだというジョイは子供たちと家に残って、私の子供も含め、みんなでプールに行くことになった。一方、ボブと私たち夫婦の三人は、ビルの招待に応じてメルボルン・カップの方に行くことにした。

 いくらオーストラリアでも、自家営業でもなければ、夫婦単位で仕事をすることはまずないが、仕事を除けば、あとは何事も家族単位、夫婦単位で行動するのが普通だ。ジョイが、ボブと別行動をとるというのは、正に”異例のできごと”なのだ。メルボルン・カップ・ディの人混みは、よほどのものに違いない。『ジョイは、ものすごく混雑すると言っているが、東京の満員電車のように、レースが終わるまで競馬場に入ったときのままの姿勢でいなければならないのかな?うしろ向きになったら、いったいどうなるんだろう』と、私はどのくらい混雑するものか、レースそのものをみるより、人混みをみる方に興味が湧いてきた。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 61-63.

ウォバトンのボブの別荘

「オーストラリアン・ハズバンド」に登場する、ウォバトンのボブの別荘を訪れたときに父が撮影したフイルムです。


「トランス・オーストラリアン号」

「あわや大事故に」「のんびりした乗客」に登場する「トランス・オーストラリアン号」に乗ったときに父が撮影したフイルムです。



のんびりとした乗客(2)

 再び車内に乗り込もうと、外を歩いていると、プーンとアルコールのにおいが漂ってくる車両にぶつかった。

『そうだ、ビールでも一杯ひっかけよう。』ラウンジ・カートおぼしきところにのりこんだとたん、ビールの匂いがひときわ強烈になった。

 無理もない。ラウンジ・ルームはビールの大洪水・・・。そのビールのプールにこわれたコップがいくつか浮いていた。

『これだけありゃ、一年ぐらいはたっぷりのめるかなぁ・・・。』
『そりゃあ、無理だよ。この暑さじゃあ、蒸発するのが早いから、大急ぎで飲んでも二、三日でビールは干上がっちまうよ。』
『そんなことしたら、胃がいかれてしまうしさ・・・。』
『でも、こんなにスボンや靴下にビールをのませたのは初めてさ・・・。』

 例によって、出来上がった紳士たちが、ビールを含んだズボンの裾を見やりながら、ワイワイガヤガヤ。床はジャブジャブ・・・。

 私は、床に漂うビールの匂いに酔いながら、一生懸命ラウンジ・カーのつんざくような話し声、笑い声から逃れていた。

『どこか違っている。これや、どこか変だぞ。』

 どうして、乗客はこうやってのんきに冗談を言い合っているのだろう。何故怒らないのだろうか。靴だってズボンだって、ビール漬けにされたのだ。コップで手を切ったのか、中には血がにじんだハンカチを手に巻いている人もいる。

 仮に日本でこんなことがあったら、乗務員はたちまち乗客に取り囲まれて、ことと次第によっては、一騒動起こるのは必至だ。

 まして乗務員が、うっかり『わたしは知らないよ。』などと言おうものなら、腕の一本や二本へしおられないまでも、乗客の怒りに火をつける結果になる。ところがここでは、乗客が乗客のご機嫌をとって歩く。ちょっと想像もできない。

 オーストラリアに来て、二年近く経って、少なくともオーストラリア人の「鷹揚さ」や「助け合い」の心については、かなり理解していたつもりだが、こういう異常時にも、いつもと変わらぬ態度をとることができるとは、ただただ驚くばかりであった。

 ビールの無料酔いで、フラフラしながら、自分の席に戻ってさらに二〇分、汽笛一声、大平原の中に笑いを残して、列車は再び走り始めた。

「あのときは、てっきりダメだと思った。こうして元気でいられるのが不思議だ。みんながお祈りしたからだ・・・。」

 終点のパースに着くまで、赤茶けた大平原で起きたあのできごとが何度も人々の話題になった。まかり間違えば、大惨事にまきこまれていたかも知れないような恐ろしい出来事の中で、ふだんと変わらない余裕をもてる人間がいたことは、私にとっては驚きとしかいいようがなかった。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 53-54.