2014年10月7日火曜日

生きているその精神

 ところで「メイト・シップ」は、もともとは奥地を開拓した牧畜業者や農民たちの間に生まれたものであるから、人口の四分の三が都会に住み、ホワイト・カラー層がふえた現在では、一部の人々を除けば、メイト・シップという言葉は、現実的な意味を失って「もはや伝説にすぎなくなった。」と言う人もいる。しかし、私のみるところ、姿や形こそ変わっても、メイト・シップは、依然として現代のオーストラリアにも生き続けているようだ。
「イギリスなら、引っ越して隣人とまったく口をきかないでも、あるいは、隣人が一体誰なのかを知らないままでも、住みつくことができますが、オーストラリアではそうはいきませんでした。たちまち隣人から歓迎の挨拶をうけましたし、自然と交際もすすんだものです。隣人の話では、交際が押しつけがましいものにならないように、注意したそうですよ。」
 イギリスから移住してきたという若い父親は、子供を公園の芝生で遊ばせながら、私にこう話した。その人の奥さんも、
「この国の人ほどお喋り好きな国民はいませんねぇ。見知らぬ同士なのに、お天気の話や、その日の出来事を話し合うんですもの・・・。」
 これについて友人の一人はこう説明してくれた。
「たとえ、たまたまエレベーターに乗り合わせたにすぎなくても、じっと黙っているのは、大変失礼にあたるんだ。だから、ほんのわずかな時間でも何か喋らなきゃあ・・・。」
 私の車に乗り込んできたヒッチ・ハイクのアメリカの学生は、「世界中で、この国ほどヒッチ・ハイクしやすい国はありません。みんな親切で、思いやりがあるんですね。」と話していた。
 メイト・シップは、もとは男同士の友情を言う言葉であるから、何でも彼でも、親しくふるまうものをすべてメイト・シップとしてしまうのは、正しくないだろう。だが、こう言えないだろうか。もともとは、男同士の仲間意識を意味するメイト・シップだが、今や、性別とか年齢の枠が取り払われて、その精神はオーストラリアの至るところに、息づいていると・・・。
 いずれにしても、互いに見ず知らずの間がらでも、一言二言交わせば、たちまちのうちに仲良くなることにかけては、オーストラリア人の右に出る国民はいないだろう。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 147-148.

2014年10月6日月曜日

メイト・シップ

 オーストラリア生まれの作家であり、評論家であるC・マックグレイガーは、その著書『オーストラリアのプロフィール』の中で、オーストラリア独特の「メイト・シップ」について次のように述べている。
 「オーストラリアでは、男同士の間に、非常に古い伝統である『メイト・シップ』が存在するが、これは1890年代の作家、特にヘンリー・ローソンによって美化されたものだ。
 現在では、婦人がある程度の地位を獲得したため、メイト・シップは、すたれてしまったようにみえるが、軍隊の中では、以前よりずっと、強くなっている。また一部の労働者の間では、いっそう重要な存在になっている(中略)それが、ホモ・セクシュアリティに結びつくものかどうかはともかくとして、男同士の友情というものは、男女間の友情よりも、はるかに大切なのである。オーストラリア社会では、婦人は(友人とか、仲間としては)他の国の婦人たちよりも、重要視されていない。」

「メイト・シップ」、オーストラリアの男たちが、よく口にする言葉である。"相棒精神"とか"仲間意識"とでも言ったらいいだろう。
 メイト・シップは、開拓時代、きびしい自然環境に立ち向かって生活する男たちの間に生まれた。未開の地にやってきた人々は、特別の仲間意識を持ち、強い連帯感をもたげなければ、次々と襲うさまざまな困難を克服することはできなかったであろう。物理的にも精神的にも、互いを助け合い、励まし合うことがなかったら、孤独と闘いながら、広大なブッシュや砂漠地帯を、緑の牧場に作りかえることは、不可能だったに違いない。
『ひとヤマあてようと、二人連れでやってきた鉱山師の一人が、急死してしまった。生き残った相棒は、仲間を埋葬すると、空を仰いで、「神様というものが、本当におられるなら、この男のことをよろしくお頼み申します。なにしろ、オレの相棒だったもんで・・・」と祈った。』という話があるが、これなど、メイト・シップを理解する上で役立つ話だろう。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 143-145.

2014年10月5日日曜日

ピック・アップで助け合い (2)

 反対側の道路からは「パイパー、パイパー!」(パイパーとはペーパーのオーストラリアなまり)こちらの方は、退役軍人の、オールド・ボーイのしわがれ声だ。
 市電の走る音が、ガタン、ゴトン、合間には、メルボルン中央郵便局の時計塔のチャイム。そして交通警官の笛の音。今日は雨が降ったせいだろう、白いヘルメットに黒い旧式のマントを着ているが、しなやかに動く白い手袋ははっきり見えない。逆に信号の灯りが、やけに輝く。
 ヴィクトリア朝風の建物が多いメルボルンは、どことなくロンドンをほうふつとさせる街であることはすでにふれたが、最近では、古いビルをとりこわして高層ビルがふえてきた。イギリススタイルとアメリカスタイルの合体である。
 そんな、近代的なビルとクラシックな建物とが並ぶメルボルンのあちこちに、ハンド・バッグや鞄を手にした人たちが、大勢つっ立っている。それも恋人同士の待ち合わせか?それにしては、とうの立った少々くたびれた恋人が多すぎる。待ち合わせには違いないが、全部が全部恋人とのデートというわけでもないらしい。彼らの関心は実は待ち合わせよりも、車にあるのだ。郊外にある自分の家まで送り届けてくれる車にだ。彼らは友人同士でさそい合わせて、同じ車で出勤したり帰宅したりしている。出勤時や勤め帰りの車には、定員いっぱいか、それよりも多くの人間が乗り合わせている。
 労働力が足りないうえに、託児所などの社会福祉士施設が発達しているせいか、この国では共働きが多い。だから、なかには旦那さんが奥さんだけを乗せて、二人きりで走る車もあるが、中心街を出るまでには、車の中の人数はさらにふえるのが普通だ。友人同士が、たとえば一週間交代で何人かの仲間を自分の車で送り迎えするのだ。つまり朝はそれぞれのオフィスまで送り、帰りは、待ち合わせ場所にいる友人を次々にピック・アップしてそれぞれの家に送りとどけるのだ。
 ゼネ・ストで一切の交通機関がとまっているようなときでも、たった一人しか乗っていない車が圧倒的に多い日本とは、まさに対照的だ。これには、出勤時間や退勤時間がだいたい同じで、それぞれの勤め先もあまり散らばっていないことも関係してくるだろう。何しろ、時間外労働をするサラリーマンなどほとんどいないお国がらだ。朝出勤する時刻が同じなら帰りも当然似たような時間に仕事が終わるというわけか。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 134-135.

2014年9月23日火曜日

父の遺したテープにあった「あるニュース」

父の部屋にあったオープンリールやカセットのテープの中から、父が生前活躍していた様子が遺っていないか探してみたのですが、どうやら自分が出演した放送をほとんど録音、録画していなかったようでした。

そんな中、例外なのがこの録音。父が最初に赴任した鳥取放送局時代に読んだらしい「あるニュース」が遺されていました。

しかしながら、これ、本当に放送されたものなのでしょうかね?
それとも、何かの社内の忘年会の企画用の素材かも。

残念ながら、もう真相を確かめることはできません。


2014年7月21日月曜日

ピック・アップで助け合い (1)

 私は、夕方のメルボルンの中心街を散歩するのが大好きだ。東京の騒々しさが、体にしみついているのだろう。ここでの毎日は静かすぎてどうにも落ち着けない。馬鹿げた話だと思いながらも、知らず知らずのうちに騒音を求めている自分に気付く。
 メルボルンが年寄りと、僅かな観光客だけの"眠れる街"から目覚めるのは、朝の出勤時間と昼食時、そして退勤時の三回だと述べたが、中でも夕方は、ひときわ活気にあふれる。市電も次から次へとやってくるし、車も信号待ちするほどふえる。だが、メルボルンが目覚めている時間は短い。ものの30分から40分もすれば、また元の静けさに戻ってしまう。だから、もたもたしていると、期待する騒音に逃げられてしまうことになる。
 メルボルンの美しさの一つは「雲」である。午後から、黒いというよりは濃い青味がかった雲が広がったかと思うと、アッという間に大粒の雨が降り出し、ごていねいなことに、まことに豪快な雷、さらにひょうまで降る。だが、いまは雨は降っていない。ところどころに黒い雲が浮かんで墨絵のような美しさだ。
 目抜き通りに出ると、まずネオンが飛び込んでくる。空が薄暗いせいか、街全体が灯りの中に浮かんでみえる。コリンズ・ストリートとエリザベス・ストリートが交差するメルボルン一の賑やかな交差点に近づく。
 オフィスから、サラリーマンが洪水のように飛び出してきて道を埋める。いつもは、悠々と歩く彼らの足取りが何故か気ぜわしい。ぼんやり歩いていたら、人にぶつかってしまう。『そうだ、この感じだ。やっと、都会らしい雰囲気になったぞ・・・。』
「ヘラルド、ファイナル!!ヘラルド、ファイナル!!」
 ジーンズのよく似合う、ちじれっ毛の小学生のテナーがきこえてきた。「ヘラルド新聞の最終版ですよ。」と呼びかけている新聞売りの少年だ。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 132-134.


2014年3月2日日曜日

不買運動 (2)

 生鮮食料品の値段を下げるようにという程度の市民運動は、実はこの国ではきわめて控えめなもので、もっともっとスケールの大きな市民運動がいくらでもみられる。例のサリドマイド児の保証金をめぐって、イギリスのディスティラーズ社と被害者との交渉が難航したときのことだ。イギリス国内での動きに呼応して、オーストラリアでも、この会社が販売している食料品とスコッチウィスキーの不買運動が大規模に展開された。私はそこで日頃酒を買っているなじみの店フォガッティ食料品店にでかけた。ここの若だんなのブライアンは、親しい友人の一人だった。ちなみにこの国では、主に食料品店とパブがアルコール類を扱っている。
「ブライアン、問題のスコッチをくれないかい?」
「うん、だけどケン、例の一件知っているだろう?」
「不買運動のことかい?でもあれは、買うのをやめようということで、まさか売るのもやめるというんじゃないだう?」
「でも、今日は、別のスコッチにしておかないかい?件がいつも飲んでいる例のウイスキーにさ。」
 私は、すっかり当惑している様子のブライアンを、それからかうのはやめた。ブライアンの表情には、ジョークを言うときのあのいたずらっぽい笑顔も、何にでも興味をもつ私に答えてくれるときの真剣なまなざしもなく、オロオロととまどいをみえていた。
 とにかく、不買運動の徹底ぶりにはすっかり驚いてしまった。そして場合によっては、不買運動が、不売運動になることを、身をもって知ることができた。かりにブライアンがそのスコッチを私に売ったところで、いわば外国人相手である。逃げ道はいくらでもあろう。だが、いったんみんなできめたことは、みんががきちんと守る習慣になっている。
 こういう徹底した不買運動があったからこそ、会社側もサリドマイド児に対するそれまでの態度を改めて、補償問題について、前向きに取り組み始めたのだろう。


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 130-131.

2013年6月9日日曜日

不買運動 (1)

 あるとき、台風にともなう集中豪雨で、メルボルンとその近郊が大洪水になった。メルボルンの目抜き通りは、川となって濁流がうずまき、ABCオーストラリア放送委員会の建物も、といがあまりの豪雨をさばききれずに、天井から雨がもれ始めて、上を下への大騒動。雨水はじゅうたんを濡らしただけではすまず、オフィスからオフィスをかけめぐった。ひどい被害をうけたのは近郊の農家で、畑は一面水びたしとなり、羊や牛は溺死して水にうかび、大変な損害を出した。
 スーパー・マーケットや八百屋の店頭に並ぶ青果物は、軒並み大幅に値上がりした。受給のバランスが崩れて、いつもなら日本い比べると比較にならないくらいほど安い野菜や果物も、さすがに高値となった。一個30セント(80円)のキャベツに三倍の値段がつけられたりした。

 そんなある日、いつものスーパー・マーケットに行くと、数人のおばさんたちが入口をふさぐようにたむろしているのにぶつかった。スーパーの入口のドアには、何やら書かれたビラがはってある。
 この日私の家では、友人を招いてパーティを開く予定があり、限られた時間の中で急いで買いものをすませなければならなかった。私がおばさんたちをかき分けて、スーパーに入ろうとすると、
「ここで買いものするのは、およしなさい。ほだ、あちらに見えるスーパー・マーケットに行った方が良いですよ。」
「えっ?どうしてなんですか?」
「ちょっと、こちらをごらんなさい。ここに書いてあるように、ここでは、三本(一束)○○セントもするにんじんが、向こうでは○○セント。トマトも1ポンドあたり○○セントも安く買えます。キャベツに至っては、一個につき○○セントも違うんですよ。」
 両方のスーパー・マーケットの値段を書き上げた一覧表を、とうとうと説明し始めたのだ。説明をききながら、私はその日の朝刊の記事を思い出していた。
「そういえば、豪雨のあとの生鮮食料品の値動きを調べた記事が載っていたな・・・。たしかアメリカ系スーパーのチェーン店が、どこも、値段が一番高かったと書いてあったな・・・。このスーパーも、問題のチェーン店の一つだっけ・・・。」
 とにかく時間がなかったので、おばさんたちの言うことを素直に信じて、彼女たちが教えてくれた別のスーパー・マーケットで買いものをすませることにした。
 あとできいたのだが、他の店に比べてアメリカ系スーパーのチェーン店では、生鮮食料品がべらぼうに高く、そこで不買運動で対抗しようと、主婦たちはそのチェーン店の一軒一軒で、実力行使をしたとのこと。"おしゃもじ"こそもっていなかったが、大勢の客でいつも混雑する当のスーパー・マーケットには、ほとんど人影をみかけなかったから、不買運動はかなり徹底していたようだ。
 二日後、例の新聞は、「アメリカ系スーパー・マーケットは、どの店も、生鮮食料品の値段を妥当な線にまで下げた」ことを伝えていた。スーパー・マーケットといっても、日本のデパートの小型版と言えるほど、多くの売場をかかえているので、一部の食料品を高くしたために他の売場にまでお客がよりつかなくなったのでは、割に合わないということなのだろう。

及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 127-130.