席を立って線路に降り、何かわめきながら台車をのぞきこんでいる乗務員らしい男にたずねた。それらしいお揃いの服をきた鉄道員が四人ほどいた。
「どうしたんですか?」
「私は知りません。調べてみないと...。」
「もう、三〇分以上経ってるし、まだ何も判らないんですか。」
「とにかく、私には判りません。」
「じゃ、いつ発車するんですか。」
「その質問にも、私は答えられません。」
こんな答えが返ってくるときは、いくらねばっても何も聞き出せないことは、経験的に判っていたので、これ以上たずねるのはやめにした。
とにかく、オーストラリアでは、はっきり判るか、まったく判らないかのどちらかで、あいまいな答え方をしないのだ。どんなに親しい間柄でも、自分の答がいいかげんであったために、先き行き相手に迷惑をかける―特に金銭的な損失を与える場合はなおさらだが―おそれがあるような質問には「自分は多分こうだと思うが、専門家に確認してくれませんか。」と付け加えるのが普通だ。
私たち日本人ならば、そんなことを言ってつき放したら『冷たい、不親切なヤツだ。』と思われてしまうのを恐れて、少々あいまいな知識でも、つい断定的に教えてしまいがちである。オーストラリアでは、自分の言ったことに対してきびしく責任を追及されるのに、日本では間違いはよくあることだと、見逃してくれることの方が多い。
一見不親切で、責任のがれとも受けとれる乗務員の答え方のうらには、こういう私たち日本人とは根本的な違いがあるのだ。
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会 pp. 51-52.
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