「イギリスなら、引っ越して隣人とまったく口をきかないでも、あるいは、隣人が一体誰なのかを知らないままでも、住みつくことができますが、オーストラリアではそうはいきませんでした。たちまち隣人から歓迎の挨拶をうけましたし、自然と交際もすすんだものです。隣人の話では、交際が押しつけがましいものにならないように、注意したそうですよ。」
イギリスから移住してきたという若い父親は、子供を公園の芝生で遊ばせながら、私にこう話した。その人の奥さんも、
「この国の人ほどお喋り好きな国民はいませんねぇ。見知らぬ同士なのに、お天気の話や、その日の出来事を話し合うんですもの・・・。」
これについて友人の一人はこう説明してくれた。
「たとえ、たまたまエレベーターに乗り合わせたにすぎなくても、じっと黙っているのは、大変失礼にあたるんだ。だから、ほんのわずかな時間でも何か喋らなきゃあ・・・。」
私の車に乗り込んできたヒッチ・ハイクのアメリカの学生は、「世界中で、この国ほどヒッチ・ハイクしやすい国はありません。みんな親切で、思いやりがあるんですね。」と話していた。
メイト・シップは、もとは男同士の友情を言う言葉であるから、何でも彼でも、親しくふるまうものをすべてメイト・シップとしてしまうのは、正しくないだろう。だが、こう言えないだろうか。もともとは、男同士の仲間意識を意味するメイト・シップだが、今や、性別とか年齢の枠が取り払われて、その精神はオーストラリアの至るところに、息づいていると・・・。
いずれにしても、互いに見ず知らずの間がらでも、一言二言交わせば、たちまちのうちに仲良くなることにかけては、オーストラリア人の右に出る国民はいないだろう。
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会 pp. 147-148.
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