そうは言っても、成人してから大人の仲間入りした子供に対して、人間教育をする人はもういない。二十一才の誕生日が過ぎて、大人の仲間入りをしたら、自分で自分の行動に責任をもつことは、言うまでもない。成人してから社会のルールを破るようなことをしたら、責められるのはあくまでもその本人なのだ。
たとえばボブは、イスラエルの首都テルアビブの空港で、岡本公三ら過激派の日本人青年が、自動小銃を乱射した事件のあと、岡本の父親が、責任を感じて小学校校長の職をやめようとした報道について、理解できないという。
「オカモトはまだ成人していないのか?」
「いや、たしかに彼は二十四才のはずだ。とっくに成人しているよ。」
「じゃあどうして、父親が責任をとらなきゃならないんだい、ケン?」
ボブは、どうしても判らないと言った表情で、何度も私にきき返したあと、
「ハハーン、日本では、子供が不始末をしたら、その責任は親にもあるというわけだね?」
「そう、その通りだと思うよ。」
「犯人の責任を追及するだけでは十分ではなくて、その犯人を育てた親の責任も追及するんだね?
「そうなんだ。そういう例は珍しくないんだ。」
「ということは、子供が大人になったことを親が認めていないことにはならないのか?成人している我が子を、子供扱いしていることにはならないのかね。」
「うん、それはそうだけど・・・。」
「親は、生きている間は、自分の子供がしでかすことの責任をとらされる恐れがあるわけだ。たとえ子供が成人したあとでもね。そうして子供を正しく育てあげる責任は、その親だけにあって、周囲の人はまったく関係ないという考え方なんだね。ところで、ケン、君は、両親だけの力で子供を一人前の社会人として育てる事ができると思っているのかい?」
ボブのこの一言が、すべてを表していると思う。親が子供の責任をもつのは、成人するまでのこと、大人の仲間入りをした我が子が極端に言えば、何をしでかそうとも、その行動の責任をとるのは、本人であること。ただし、子供が成人するまでは、機会あるごとに、世の中の大人という大人がみんなで、人間教育をする。こういう”オーストラリア式”を、やはり、私は肯定したいと思うのである。
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会 pp. 122-123.
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