ここで私はあることを思い出していた。オーストラリアでは、何かの拍子に体が触れ合うようなことがあると、必ず「ソウリー」という言葉がはねかえってくることだ。そう言えば、他人の体に、もちろん偶然にでも振れることは、大変失礼に当たるんだと誰かに教えられたことがあった。こういう乗り物に乗るときでも、お互い体が触れ合うのを嫌って、少しでもそれに近い状態になったら、もう満員とみなすのだろうか。この混雑感覚のずれは、フレミントン競馬場に着いて、なおいっそうはっきりした。
ビルは、私たち以外にもたくさんの人を招待していたので、ビルに代わってボブが競馬場内を案内してくれたのだが、どこへ行っても、”身動きできない”どころか、十分に体を動かすことができるのだ。事実、八ミリカメラで、気に入ったショットを撮ろうと、かなりはげしく移動したが、人混みにさえぎられることなどまずなかった。人間が多いと思ったのは、メイン・レースのゴール・インの様子を撮影したときだけ。ゴールが近づくにつれて、興奮した観客がゴール付近に殺到したからだ。といっても、それもほんの僅かの間のできごとで、ゴール・インしてしまったら、汐がひくように、また元のがら空き競馬場に戻ってしまった。
私は、日本の競馬場に行ったことがないので、どこが同じでどこが違っているのか判らないが、ただ一つはっきり言えるのは、この国の人たちが言う”人混み”と、私たち日本人が考える”人混み”とは、大きな違いがあるということだ。
「あんな人混みのところなど、まっぴらだ。」と言われても、日本人の私からみると、どうしても人がひしめいている人混みとは感じられないのだ。しょせんは、日本の二十一倍の広さのところに、東京との人口に相当するぐらいの人間しか住んでいない”過疎”の国のこと、例によって、混雑の度合を測るにも、モノサシの目盛りが違うのだろう。
翌日の新聞は、今年のメルボルン・カップ・ディの入場者が、これまでの最高だったことを伝えていた。
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会 pp. 66-67.
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