ほぼ満員の電車。再び窓を見る。
「まだかなりスピードが出ているぞ。」
ひじかけに右腕をまきつけ、両手をしっかり組み合わせる。たちまち手のひらにじっとり汗がにじむ。
「○○線で脱線事故・・・」
不思議なことに、たて文字の活字が、頭の中に組み立てられた。横倒しになった列車、その傍でうごめく乗客、空転する車輪、人々の叫び、救急車のサイレン・・・。そんな光景が・・・。
しかし、現実の列車は一向に倒れようとしない。相変わらず「ダダダダ、ドドドーン!」だ。そして、突然、「ギギギギギィ!」乗客の何人かが椅子から派手に転げ落ちた。
凍った雪道を走っていて急ブレーキをかけた感じ・・・。たよりなく、スーッと動いている・・・。金属をこすり合わせるような音が何秒かつづいて、列車はやっと停まった。通路に放り出された乗客が、ゆっくり立ち上がる。どの顔も真っ青だ。ふるえている人もいる。
うしろの席の赤ん坊が火がついたように泣き出した。正確には、このときになってやっと私はこの赤ちゃんの泣き声に気づいたのだ。何しろ、目の前で起こる現象を追うのに精一杯で、うしろのできごとに神経を使う余裕など。まったくなかったのである。
「助かったぞ!! よかったなぁ!」誰かが叫んだ。この一言で、車内にやっと、ざわめきが戻った。
『やれやれ、どうやら助かったんだあ。』こう思ったとたん私は、長い間(と言っても実際には短い時間だったのだが)緊張していたせいか、全身の力が抜け去ってしまい、大きなためいきとともに、まぶたをとじた。
ふと気がつくと、奇妙なことに列車は水平に停まっていた。つまり脱線していなかったのだ。駅に停まるたびに気になったのは、敷石らしいものものもなく、ひび割れたような枕木の上にたあ並べ置かれただけにみえる頼りない感じのレールだった。『こんなレールなら簡単に脱線していしまいそうだ。』そういう意識が、心のどこかで強く作用していたのだろう。「あなたはケガはなさいませんでしたか。きっと、神さまのおかげですよ。」「そちらの方は?」
安堵のざわめきの中で、こんな声が聞こえてきた。一人の中年のおじさんが、通路に出て、客席の乗客の一人一人に、声をかけている。
『やけに田舎っぺスタイルをした乗務員だなぁ。この州の鉄道には、こんな制服しかないのかな?』
背が高く、カウボーイ姿で赤ら顔の、ひげづらである。
及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会 pp. 45-48.
0 件のコメント:
コメントを投稿