2012年9月16日日曜日

序にかえて —見た、そしてよくぞ書いてくれた

「いいか、その目でしっかり見てこいよ。」

及川甲子男がオーストラリアに発つ日、私はもう一度彼に念を押した。
「ええ。」
 答えは短かったが、握り返した手に力があった。私は彼の性格の中にある、人とは違う生真面目な一途さに期待していた。その頃、外国という存在は私にとっても未知の世界であったが、多分二年後に聞かせてくれるであろう及川甲子男の報告は、すべての情報は自分自身で確認しないうちは半分の価値しかないと若い時から信じ込んでいる私にとっても、すべて素直に受け入れられそうな気がしていたのである。

 その信頼は小冊子から生まれていた。それは彼が福岡放送局に勤務していた時にまとめた炭鉱事故の記録である。もちろんその頃私は、彼の名前も顔も知らなかったが、いきなり送りつけて来たのである。
 薄っぺらなその本は貧しい体裁であったが、一字一字に災害を根絶して人間の命を救いたいと願う青年の情熱が溢れていた。

 それ以上に私の心をとらえたのは、自分のやった仕事をきちんと説明出来る若者がいたという事実であった。他に生きて行く方法が無いために、会社にしがみつくように暮らしたり、組織に押し潰されている自分を嘲笑しながら、妻子のためにやむを得ず仕事をしている人間が多い中で、文章で自分を表現する力を持っている人物は貴重である。
 後年、私も外国に取材する機会があり、西ドイツのミュンヘンで芸術家たちと話し合ったが、今日のヨーロッパ芸術の衰退は、かつてセザンヌがピカソがルソーがカンジンスキーが、そしてあらゆる分野の芸術家が、自分の仕事を文章で主張したあの激しさを、現代の芸術家が全く心の内側に持っていないことが原因であるとの意見の一致をみたのであった。

 及川甲子男はそれが可能だと私は信じていた。帰国するや私は、とにかくまとめてみろとすすめた。その原稿を抱えて、私は知り合いの出版社を歩き回るつもりであった。
 だが、最初に三十枚ほどの原稿を、こんなのでいいでしょうかと渡された時、私はもう少しで椅子から転げ落ちるところであった。
 文章になっていないのである。少なからずあわてたが、私はこの親友に拒絶反応を起こされるのを覚悟で、真っ赤になるまで訂正し、私の意見を述べた。

 それから数ヶ月、必死に生きるという言葉がふさわしいほどの努力で彼は書き続けた。好きな酒を遠ざけ、睡眠を節約し、彼は彼自身が観察し、おそらく滞在中に未知の世界から愛する国へと自分の内部で昇華して行ったに違いないオーストラリアについて書いた。
 金沢への転勤が決まると、まるでこれまでの人生の総まとめでもするような勢いで、膨大な資料とメモと良き友人たちへの記憶を駆使して、顔色が蒼白になるほどの情熱をこめて書いた。張り合いのある人生を送っていますよという告白も聞いた。

 出発の前日、これがすべてですと渡された大きな原稿用紙の包みを開いて、私は涙が溢れそうになった。それは立派な文章であった。どのくらい苦労しただろうか。私は彼の心をおしはかって、あらためて人間の生きる苦しさを思った。よくぞ書いてくれた。

 私は確信をもって言う。ここに書かれているのは、心豊かな人間が見た真実のオーストラリアであることを。

 1975年5月

鈴木 健二
(NHKアナウンサー)


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 3-5.

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