2012年9月16日日曜日

はじめに

このBlogでは、2012年6月にこの世を去った父、及川甲子男が、1970年代初頭のメルボルンに滞在したときの体験談「メルボルン・ノート」などをご紹介させていただきます。

及川甲子男は、生前、NHKのアナウンサーとしてキャリアをスタートしました。
アナウンサー時代の仕事の足跡を、Web上でも見つけることができます。
そして、生前に父から聞いた話から、この番組も、父の仕事です。
父は、どちらかというと文化とか芸術とかいった高尚そうなものには興味がなく、自らの仕事に職人的に打ち込んでいるか、周囲の人たちと「浪花節」モードでお酒を片手に会話をしているかの、両極端な人間でしたが、そんな父にしては珍しく、唐招提寺には、番組で訪れて以来、何か感じるものがあったらしく、しばしば「美しいお寺だった」と話しておりました。
父は何度か唐招提寺を訪れていたようで、父の母(私の祖母)が亡くなった少し後に唐招提寺を訪れたことがあり、そのときにお寺にいらした住職さんに「悲しみを抱えていらっしゃいますね」と声をかけられ、その住職さんと長い会話をしていただき、心が安らかになった、という話を父から聞いたことがあります。

そんなアナウンサー、人の書いた文章を読み上げることが仕事だった父が、一方で、自らも文章を書いています。
それが、このBlogのタイトルとなっている「メルボルン・ノート」という本です。
〔及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会〕

1960年代の末のある日、ラジオ・オーストラリアとの交換アナウンサーの制度があることを知り、父はそれに応募し、無事選考され、約二年間、メルボルンに滞在し、ラジオ・オーストラリアの日本語放送のアナウンスをしました。

生前父は、
「それまで仕事ばかりしていて家族を犠牲にしてしまったから、そのお詫びでお前を連れて行ったんだよ」
とか言っていましたが、あの仕事中毒だった父が、そんな理由だけでオーストラリアに行こうと思うはずはないわけで(笑)...おそらくそれまで職人的に仕事に打ち込んできて、ある程度アナウンサーとしての技は見えてきたところで、もう少し視野を広げようと思ったのか、あるいは、あの持ち前の強い好奇心が、当時はまだ日本でほとんど知られていなかった国に対して働いたのか、おそらくその両方だったのでは、と思います。

このBlogでは、しばらく、この父のメルボルンに滞在したときの体験を記した本である「メルボルン・ノート」から、いくつかの箇所を引用して、ご紹介させていただきたいと思っております。

よろしくお願い致します。

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及川 甲子男(おいかわ きねお、1936年6月〜2012年6月) 
千葉県香取市(旧佐原市)生まれ。
野球と真空管ラジオ製作に夢中で、お祭りが大好きな子供だった。高校時代には、当時英語の教師であった故 猿谷要氏(東京女子大名誉教授・アメリカ史)と出会い、生涯交流を続けた。
1959年3月早稲田大学政治経済学部卒、早稲田大学大学院商学研究科中退の後、1959年7月にNHK(日本放送協会)に入局し、以後、鳥取(1959年11月〜62年8月)、福岡(1962年8月〜66年2月)、東京(1966年2月〜71年2月)において、報道、ドキュメンタリー、科学の番組に出演した。
1971年2月からABC Radio Australiaに出向し、日本語放送のアナウンサーとして、当時まだ知る人が少なかったオーストラリアの社会、生活、文化を日本に紹介した。
1973年4月にNHKに戻り、東京(1973年4月〜74年8月)、金沢(1974年8月〜76年8月)、鳥取(1976年8月〜79年8月)、仙台(1979年8月〜84年7月)の各地において番組に出演した。
1984年7月から国際番組部に移り、1996年6月まで海外向けに日本を紹介する番組をプロデュースした。
NHK退職後は、地元のガイドブックの編集、パソコン教室の講師、老人ホームにおける朗読奉仕などに従事した。

*上記内容は、著者自身によってウィキペディアにも投稿しました。

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