2012年9月16日日曜日

豪に入っては・・・(1)

「こんにちは、いい天気ですね」
「ごきげんいかがですか」
 すれちがった初老の婦人と挨拶を交わす。オーストラリアでは、道で人に会えば、見知らぬ者どうしでも、最低、この程度の挨拶はする。いつものことだからと、そのまま通り過ぎようとした。
 ところが、このおばあさんは、ちょっと違っていた。歩く早さを変えない私の背中に、「もしもし、ちょっとおたずねしてもいいですか?」と声をかけたのだ。

 私たち一家は、メルボルンに赴任してから一週間をホテルで過ごし、やっとイースト・セント・キルダのフラット(アパート)に落ち着いたばかりだった。夏の盛りの二月半ばのこと、スモッグにさえぎられることのない夏の太陽が、ジリジリ照りつけている。そんな中を、女房のお供をして、買いものに行った帰りだった。

「何か、お役に立つことでも?」
私は、おばあさんの方を振り返った。すると、このおばあさん、
「あなたは、男性でしょう」
と、とんでもないことを言い出したのだ。『何だって?この国じゃあ、男と女の区別も判らないのか・・・。』

 このおばあさんが、上品で感じがよかったのは、彼女にとっても私にとっても、幸いだったと言うしかない。そうでなければ、私のブロークン・イングリッシュによる罵声が機関銃のように、私の口から飛び出していたに違いない。

 私は、自分の服装をあらためて見なおした。私は、この国の紳士たちの夏の正装である、セミ・スリーブのワイシャツにネクタイ、下は白の半ズボンに、白のハイソックといういでたちだった。
 天下晴れて、"ジェントルマン"の服装をしている自分を確かめてから、私は、ぶぜんとして答えたものだ。
「もちろんですよ。」
 目がくらむようなギラギラの太陽の下、何一つさえぎるものがない街角で『一体このおばさあさん、何がいいたいんだ。』

 メルボルンは湿度が低いので、家の中にいるかぎり、暑さはさほど感じられない。家のスペースが広く、天井が高いため、風通しがよいせいだろう。だが、こういう涼しい家の中から一歩外に出たら、たまらない。足元から、アスファルトの熱気がムーッと伝わり、それに強い日射しも手伝って、思わず目がくらむ。冷房がよく効いたビルから、カンカン照りの道路に出たときの、あの感じだ。
 スーパー・マーケットを中心に、ショッピング・センターをひとまわりして、汗びっしょり・・・、少しでも早く家に帰って、シャワーを浴びたい気持ちなのに・・・。私は心の中でこの婦人を"バアサン"とでも呼びたくなった。

「あなたは、どうして、奥さんにショッピング・カーをひかせているんですか?」


及川甲子男 (1975) 「メルボルン・ノート」 日本放送出版協会  pp. 11-13.


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